【連載】チコちゃんに叱られる! クリームシチューの由来と脱脂粉乳
10月31日に続いて、10月24日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。本日は、
- 虫の鳴き声が心地よく聞こえるのはなぜ?
- 【正解が出たことによる罰ゲーム】ETCは何の略?
- クリームシチューはなんでできた?
- なぜ庭をつくる?
という4つの話題のうち3.について考察する。
放送ではクリームシチューは「「アメリカにいた一人の日本人が日本の子どもたちを救いたいと思ったから」が正解であると説明された。日本の食文化を研究している畑中三応子さん&ナレーションによる解説は以下の通り【要約・改変あり】。
- クリームシチューは日本発祥。
- 1945年の終戦直後、日本の人々は危機的な食糧難に襲われていた。その原因は、
- 人手不足による食料・肥料の生産困難
- 1945年は稀に見る冷夏で農作物が不作だった
- 海外から兵士・民間人300万人以上が一斉に帰国したためより多くの食糧が一気に必要となった。
- そのため栄養不足により、年間9000人以上にものぼる餓死者が続出したと言われている。
- 食糧難でいちばん影響を受けたのが子どもたちだった。
- この状況に心を傷めていたのが浅野七之助だった。
- 1917年、日本で新聞記者をしていた浅野七之助は特派員として渡米しその後アメリカに定住。
- アメリカに住む日本人向けに邦字新聞を書いたり、公共の情報を伝えていたりした。
- 浅野が45歳だった1939年、第二次世界大戦が勃発、その後浅野を含む在米の日本人や日系人は強制収容所に送られ3年間過酷な環境での生活を強いられた。
- 戦後、強制収容所を出た浅野は食糧不足で日本の子どもたちが餓死しているという現状を知り、日本戦災難民救済運動を始めた。
- 浅野はアメリカで記者仲間を集めて邦字新聞社を設立。終戦の翌年に創刊号を発行。その記事の中で
●刻一刻深刻の度を増す食糧状態は祖国市民を飢餓線上より餓死の紙一重の境に迄押しつめ
...食糧の訣乏と共に捨子の数が増加
と記し、広告欄で寄附を募った。
- 日本難民救済の広告は反響を呼び、集まった寄付金により1946年11月30日には食糧95000kgが日本に送られた。この物資の援助は6年間続いた。
- この物資は、以前番組でも紹介した『ララ物資』と呼ばれるものの始まりとなり、アメリカ政府を巻き込んだ救済活動になった。
- 救援物資の中には脱脂粉乳が含まれていた。脱脂粉乳は動物性たんぱく質・カルシウムが豊富で栄養価が高く、主に学校給食で提供された。
- しかし当時の脱脂粉乳は
- 味がしない
- 食感が悪い
- 温める時に鍋底が焦げ付くため焦げ臭い
- 船で長期間輸送したため湿気で劣化
といった理由で評判が悪かった。
- そこで脱脂粉乳に小麦粉でとろみをつけ、魚・肉・野菜で臭みを抑えた『白シチュー』が開発された。
- 『白シチュー』は多くの子どもたちに受け入れられ、人気の給食メニューになった。
- 1966年、食品メーカーが白シチューを再現したクリームシチューのルーを開発し大ヒット商品に。クリームシチューは寒い季節にぴったりの献立として日本の食卓に定着した。
- 【補足説明】脱脂粉乳は現在では製造工程・保存方法が改善されている。
ここからは私の感想・考察を述べる。
まず、学校給食の脱脂粉乳の話題は2024年1月5日初回放送でも取り上げられていた。その時は「給食で牛乳を飲むのはなぜ?」であり、脱脂粉乳から牛乳への切り替えの話題が取り上げられていたが、今回は脱脂粉乳を活用した料理の開発の話題であった。
もっとも浅野七之助の貢献は戦後の日本に救援物資を送ったことであって、クリームシチューを開発したわけではない。浅野の貢献を称えることと給食でクリームシチューが提供されるようになったことは直接関係無い。クリームシチュー自体の開発がいつ、誰によって開発されたのかを掘り下げるべきであった。
脱脂粉乳のまずさについては2000年10月31日の日記で、以下のように記したことがある。
●私が小学生の頃、給食後の残飯運びで苦労した記憶がある。ただでさえまずそうな脱脂粉乳とフライやソースがまざったバケツは見ただけでも吐き気がしたものだ(私がフライ物をあまり好まない原因は給食時代の、この体験にあるようだ)。
今回の放送の補足説明では最近の脱脂粉乳は美味しくなっているとのことだが、私自身は呑む機会が無い。自家製ヨーグルトを作る時も
- 普通の牛乳 ○
- 低脂肪牛乳 ○
- 低脂肪乳 ×
- 脱脂粉乳をお湯で溶かしたもの ×
- 無脂肪牛乳 ×
という違いがあり、ヨーグルトを作ることができない。
次回に続く。
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