じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
羽田→岡山の機上から見た富士山。滅多に東京に来ることのない義母にぜひ見せたいと思っていたのに、ずっと雲が出ていてやきもきしたが、このように「頭を雲の上に出し」た様子を間近に眺めることができた。右側の黒い筋が大沢崩れ。このほか、八ヶ岳〜浅間山、南アルプス、木曽駒、御嶽〜乗鞍〜穂高、伊吹山、明石海峡大橋、小豆島などを眺めることができた。 |
【思ったこと】 _00213(日)][日記]「即席評論家」としてのWeb日記作者の意義と節度(その2) 2/11の日記の続き。前回提示した3つの問題のうち、第一の問題: 1.命が奪われた、もしくは失われた事件をWeb日記ネタにすることはすべて被害者や遺族の尊厳を無視した行為になるのだろうか。もしそうでないとしたら、具体的にどういう節度が求められるのだろうか。について私なりの考えを述べてみたいと思う。何はともあれ現実に発生した犯罪事件を語る以上、被害者やその遺族の気持ちに配慮することはゼッタイに必要。それは単に、取って付けたように「事件で亡くなられた方のご冥福をお祈りします」という一文を入れれば済むというものではなかろう。 被告のえん罪をはらそうと活動している団体のチラシでは、その目的遂行を優先するあまり、元の犠牲者の死に対する配慮がどうしても欠けてしまうように感じる。「検察側の主張では、被告は女子高校生を木に縛ってナイフで刺し殺したとされている。その時の悲鳴を近くの道路で聞いた人がいるとされているが、殺害現場からではそんな声は聞こえるはずがない」というようなチラシを見たことがあったが(だいぶ昔の話なので不確か)、被告が無実であることを筋道立てて主張している点は理解できるとしても、その描写があまりにも生々しく、やるせない気持ちが残ったことを記憶している。最近の草加事件民事訴訟の差し戻しでも同様。現実に殺された人が居るということを忘れてはなるまい。 1998年10月26日にも書いたことがあるが、人の命の重みは、現実の事件でもフィクションの世界でも同じように扱われなければならないと思う。 とはいえ、刑事事件について何も語らない、あるいは敢えて無関心を決め込むということが最善の道であるとも思えない。私生活、自然とのふれあい、スポーツネタ、芸能ネタ、政治ネタなどが取り上げられるのと同様、現実に起こってしまった刑事事件に対して目をそらすことなく、事実としてきっちりと受け止めていくこともWeb日記の一視点として十分に意義があると私は思う。タブーがあってはならない、要は、話題の取り上げ方がどういう方向に向いているかによって決まってくるのだろう、それにより、被害者や遺族の気持ちを無視したものにもなりうるし、同種の事件の再発防止の願いにもなる。 時間が無くなってしまった。次回以降に続く。 |
【ちょっと思ったこと】
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【スクラップブック】
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【今日の畑仕事】
雑草取り、チンゲンサイ、レタス、大根、白菜、人参を収穫。 |