じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
琵琶の花。上弦の月が写っていることから分かるように2/13撮影。 |
【思ったこと】 _00218(金)[教育]『受験勉強は子どもを救う』か(3)推薦入試は学力検査入試より素晴らしいか(後編) 昨日の日記の続き。今回は、『受験勉強は子どもを救う:最新の医学が解き明かす「勉強」の効用』(和田秀樹、河出書房新社、1996年)が指摘している推薦入試の問題点について考えてみたいと思う。和田氏の著書の中で特に注目すべき部分を要約すると次の3点になる。
そもそも競争というのは、少ない定員に対して志望者が集中した場合に起こる。しかし、これは志望者全体の中での話であって、高校内部での競争ではない。例えばクラスメイトと一緒に東大を受験した場合、そのクラスメイトの合否が自分自身の合否に影響を与える確率はきわめて小さい。となれば、同じホテルに宿泊したクラスメイトを蹴落として自分だけ入ることを画策するよりも、お互いに直前まで有益な情報を与えあい励まし合って受験に臨んだほうがよい結果が得られるに決まっている。さらに進学校になれば、自校から如何にたくさんの合格者を出すかということにも関心が集まる。高校野球の応援と似たような雰囲気も出てくるはずだ。もちろん、そういう中で形成される友情や連帯感が、ボランティア活動の中で芽生える助け合いの精神と同一のものであるかどうかは考えてみる必要があるけれど、少なくとも受験戦争が学校内部での友情を破壊するというのは固定観念。いじめというのは、むしろ明確で実現可能な具体的な目標を見出せない生徒たちが多い高校の中で起こるものとも言えよう。 次に2番目の点。薬害エイズを初め、医師による保険請求の水増し、脱税、誤診隠しなどが明るみに出るたびに、 そういう医者が出るのは学力偏差値重視の入試を通じてモラルを欠いた学生が入ってくるため。だからこそ推薦入試を導入して多少学力が劣っても倫理的に問題の無い志願者を入学させるべきだ。といった主張が出てくる。これに対して和田氏は、教授が絶対君主となっているような一部の医局の中でモラルを欠いた医師が作り出される可能性を指摘している。そういう医局のもとでは、ボスがどんなに悪いことをしても内部告発はしづらい。もし告発に失敗すれば二度と出世することはできないからだ。とすれば、もし、医学部で、面接試験だけで合格者を決めてしまうような入試を大幅に取り入れることになると、人物的に優秀な受験生ではなく、むしろ医局のボスの不正には目をつぶり、上司に常に従順であるようなタイプの受験生が選ばれてしまう可能性だってある。もっとも、このあたりの議論を進めるためには、過去に不正行為を行った医師がどういう入試で合格しどういう医局の出身であったのかについて実証的な根拠を得る必要があるだろう。 第3の点は、面接試験という時間的に限られた緊張場面の中で「選ばれやすい」受験生にはそれなりの特徴があるという意味。いくら研究業績を積んだ教授であっても、面接試験で人を選ぶことについては全くの素人。しかも合否判定の経緯は機密事項であって外部評価を受けることがない。そういう方法で受験生の将来を決めてしまってよいものかどうか、疑問の残るところがある。 昨今の改革論議が「推薦入試は学力検査入試より素晴らしいか」という二者択一型論議ではなく「学力検査も推薦入試も」という併用型の是非についての議論であることは承知している。とはいえ、学生定員を別枠で増やすわけではない以上、多様化重視というムードだけで学力検査の定員枠を減じるわけにはいくまい。 いずれにせよ、昨今の入試制度改革論議がもっぱら大学側の都合だけで進められてきた点は否めない。推薦入試あるいは、今回は取り上げていないがAO入試などの選抜方法が総合的にみてどういう高校生を作り出していくのか、大学合格という1つの具体的目標に変えてどういう目標を与えうるのかという点を、高校生の立場から考えてみる必要があるように思う。なお、昨日の日記で少しとりあげた中教審答申については別途、私なりの意見を述べたいと思っている。また、AO入試を含めた「努力」をめぐる問題を1999年7月9日の日記で取り上げたことがある。併せてご覧いただければ幸いです。 |
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多忙につき立ち寄れず。 |