じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] 4/6に一度ご紹介した辛夷の花。林の中をたくさんの白い蝶が舞っているように見えた。


4月9日(日)

【思ったこと】
_00409(日)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(17):5000万円恐喝被害における相互強化と権利・義務問題

 名古屋市緑区の中学を卒業した少年(15)が、在校時に同級生らに5000万円を恐喝されていたという事件が報じられている。不登校問題、家庭内暴力なども絡んでいたという報道もあるようだが、事件の詳細を知らないので内容に立ち入ってコメントすることはできない。

 ただ一般論として、このように多額のお金が恐喝されたということを同級生らのモラルの欠如だけで説明することは到底無理であろう。このように被害金額が肥大化した背景には、「イヤだ」と断る権利がきっちり守られていなかった点、それと、母親を含めて被害者側が、「お金を出す」という結果を与えることによって未成年の犯罪行為を強化してしまった点を考慮に入れる必要があると思う。少なくとも、これは道徳教育の徹底によっては防止できない。4月8日の日記でも述べたように、道徳教育になじまない生徒こそが問題なのであって、それを抑止するためには別の手段を講じなければなるまい。

  行動が強化されるプロセスには、個人が自然界に働きかけて結果を得るという「人間行動←→自然」という強化のほかに、「人間行動←→人間行動」というように複数の行動が相互に相手方の行動を強化してしまうような事例がある。相互強化というのは、個人あるいは集団の間で、複数の行動が相互に相手方の行動を強化してしまうような事例がある。
  • 泣き止まない赤ちゃんを母親があやす。
  • それによって泣き止むという結果が生じれば、「あやす」行動は強化される。
  • いっぽう赤ちゃんにとっては、「泣く」(ここでは、悲しいから泣くというより、オペラント的な意味での「泣く」を意味し、「すねる」、「ぐずる」を含む)といった行動を自発することは「あやす」ことがもたらす諸々のという好子を出現させることになるので、ますます頻度が増える。
  • 赤ちゃんがますます泣くので、母親は一日中かかりっきりになってしまう。
というのがその一例(杉山ほか、1998、 p.35-36参照)。

 この種の相互強化は「社会的悪循環」とも呼ばれる。他には、良好な人間関係を保持できない問題児が、いたずらや嫌がらせをすることで注目され、その注目自体が好子となるような事例もある(日記猿人のリストやWeb掲示板などでもたまにそういう問題児が出現しますな)。渋滞中の道路で、無理な割り込みを認めてしまうことも、結果的に違反行為を強化してしまう。暴力団による会社や個人への恐喝も同様で、脅かしに屈して金を出すことがますます恐喝行為を強化しているという側面がある。

 もっとも、今回の5000万円恐喝事件を含めて、脅かしに対して初期の段階にきっぱり「イヤだ」と断るためには、そのことによる逆恨みを絶対に起こさせないようなきっちりした権利保護のシステムが必要だ。だいぶ以前のことになるけれど、98年6月29日の日記で、子どもの権利保護についてのPTA講演会の話題を取り上げたことがあった。それは
  • 安心する権利(Safe)
  • 自信を持つ権利(Strong)
  • 自由に行動する権利(Free)
であり、これに基づく3つの合い言葉として、「あんしん」、「じしん」、「じゆう」が提起されていた(98年6月30日の日記参照)。これを保障するためには、生徒自身がこの権利の意味を理解、実践することはもちろん、学校、家庭、地域、警察がそれぞれの持ち場において、きっちりとこれを保護していく体制を作ることが大切。先日、ストーカー殺人事件に関連して明るみに出た埼玉県・上尾署の事件のような業務怠慢・放棄が起こるようでは絶対に困る。

 近年、権利優先主義が学級崩壊や校内暴力の一因になっていると主張するレトリックがまかり通っている風潮があるように見受けられるが、今回のようなケースではむしろ権利がきっちり守られないことが原因になっていることにも目を向けていかなければならない。
【ちょっと思ったこと】
  • ワープロ廃止論と筒井康隆氏

     2000年2月26日の日記で、書家の石川九楊氏のワープロ廃止論を孫引きさせていただいたが、これに関連する話題が、4/9の朝日新聞文化欄「筒井康隆・トークエッセー」で取り上げられていた。 筒井氏の主張は、創作過程ではワープロの誤変換はもとより電話とか来訪者とかを含めて、できるだけ夾雑物が入ってきたほうがいい、「現代文学を一定の試行のリズムに乗ってかいちゃいかん」ということだそうだ。

     石川九楊氏のワープロ廃止論については、「九楊さんに現代文学の傑作がひとつでもあれば、若い作家も耳も貸すんだろうけれど。」と手厳しく反論されていた。Web日記の場合もそうだけれど、「Web日記がじぶんの更新に役立つ」なんて主張するためには、やっぱ、自分が更新されているという明白な事実を1つでも示さないと説得力に欠けるということなんだろうなあ。「Web日記を書き続けることで規則的な生活習慣が身に付く」という程度のことであれば今でも証拠を示せるけれど...。

     筒井氏はまた、「自分の原稿を違う書体で見ると文章の甘いところが見えたりするからね。最新式の推敲手段です。」と言っておられたが、これはその通りかと思う。エディタでタグつきの文章を書いてブラウザで見るだけでもずいぶん違った見え方をするものだ。ウインドウの幅を広げたり縮めたりすることも有用。といって、その割にはちっとも推敲できていないけれど...。
【今日の畑仕事】

ホウレンソウ、ニンジン、ニラ、長ネギ、ブロッコリーを収穫。インゲンとトウモロコシの種まき。
【スクラップブック】