じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] テンニンギク(天人菊)。花期が長く丈夫だが、種で増やそうとしてもあまり発芽しないようだ。去年の夏に、イランの国道沿いの広場で見たことがあった。こちらをどうぞ。なお後ろの建物はイスラム礼拝所と公衆トイレ。



6月11日(日)

【思ったこと】
_00611(日)[心理]ぼかし言葉その後:「傷つくことへの恐れ」か「非束縛関係志向」か

 5/24の日記で若者に広がっているという「ぼかし言葉」について取り上げたが、関西大学の辻大介さんが朝日新聞(6/11)で、別の見方があることを論じておられた。

 5/24の日記にも書いたように、元ネタは文化庁が2000年5月23日に発表した「国語に関する世論調査」(今年1月実施、3000人中、有効回答約2200人)の結果であった。この時、新聞で報じられていた文化庁の解釈、あるいは「定説」とされる解釈は
「自分が間違った時に傷つかないよう」断定を避ける、
人間関係に傷つくことを恐れてはっきり本音を出さない
というものであった。

 これに対する辻氏の見方は
  1. 対人関係の表層化を示す証拠は得られていない
  2. むしろ人づきあいに縛られることを避ける傾向(「互いを拘束しない関係」を望む傾向)の高まりの表れである可能性
  3. 「非束縛関係志向」と「関係の表層化」は別物
というもの。要するに「発言責任をあまり求めないで、そこに私を縛りつけないで」というサインなのではないかということなのだが、まだ結論を得るだけの調査結果は揃っていないそうだ。

 辻氏が仮説の根拠として示したのは
  • NHKの中高生調査では、親友と「何のかくしだてもなくつきあう」と答えた比率を1982年と1992年で比較すると、中学生は61%→59%、高校生は69%→68%と殆ど変化なし。
  • 職場での人間関係に「何かにつけて相談したり助け合える」とつきあいを望む人の比率を1973年と1998年で比較すると53%→38%に減少し、逆に拘束度の低いつきあいを望む人が増えており、特に若年層で顕著。
という2点であった。

 辻氏はご自分のHPでこれまでの調査結果や論文を公表しておられるということだが、6/11の時点ではアクセスする余裕がなかった。99年12月6日の日記でNHKラジオに登場された社会学者が辻氏であったかどうかも未確認。とりあえず、辻氏の御主張から離れて私なりの考えを述べてみたいと思う。
  1.  5/24の日記でも指摘したように、言葉遣いは「周囲に染まってしまう」という側面があることを忘れてはなるまい。例えば、東京育ちで大学入学以降ずっと西日本で暮らしている私の場合、当然のことながら次第に関西弁の表現の比率が増えているが、これは別段対人関係観の変化によるものではなく、単に周りと同じ言葉を使うようになっただけのこと。この画面の下のほうに「この日記をマイ日記猿人に登録してみちゃったりなんかして」というボタンがあるけれども、これも別段非束縛関係を意識したものではなく、発案者の遠藤Kさんのデフォルトの表現をそのまま借用しただけのこと。
     5/24にも述べたように、一人一人に独立的に調査したとしても、周囲に影響を及ぼし合う行動の特徴の場合には、サンプルの独立性は保証されない。1クラスの中でインフルエンザにかかっている人の比率を調べると高めに出るようなもの。
     「一定の距離を置いた関係を求める」 ためにそれを使う人も居るが、特にそういう意図は無く周囲に合わせて使っている人もたくさん居るはずだ。茶髪や厚底などのファッションも同様。ぼかし言葉が使われているからには、そこに何らかの行動随伴性があると考えるのは自然だが、使い始めた人たちの行動を強化した要因と、多くの人たちが使うようになった時点での強化因は必ずしも同一とは限らない。
     同じ人のなかでも、「傷つく」あるいは「束縛」回避のために使うのは100回中1回限り、あとは周囲に合わせるだけで使っているという場合もありうる。

  2.  これまで通り断定表現を使う場合も、ぼかし言葉を使う場合も、もし、それが「傷つく」とか「束縛」といった結果(あるいは結果の回避)によって影響を受けるならば、強化や弱化というオペラント条件づけのプロセスが見いだされるはずだ。この点について、多様な状況・文脈を押さえ網羅した上での実証的な研究が必要。質問紙型の意識調査結果の平均値を比較するだけでは確実な証拠は得られない。

  3.  ぼかし言葉が何らかのサインであろうと単なるファッションであろうと、それと別に対人観の時代変化を探ることは大いに意義がある。ぼかし言葉を使っていない人の中でも非束縛関係志向が出ているとしたら、そちらのほうがむしろ重大。

  4. 「傷つく」ことの回避と「束縛」の回避は必ずしも排他的なものとは言えない。ごく親しい人に対しては「傷つく」ことを避けるためにぼかし言葉を使い、あまり親しくない人には束縛を避けるために使うということもありうるはず。「AかBか」という二者択一型の議論ができるかどうか疑問。


 最後に、辻氏のご指摘の中に
本音でズケズケ語り合う間柄だがお互いを束縛しないさっぱりしたつきあい方
というのがあった。このことですぐに浮かぶのが、Web日記を通した人間関係だろう。日記の中ではズケズケと断定表現を使うが、オフミにはあまり出ない、あるいは参加しても相手の職業や住所などは聞き出さないという関係はまさにこれにピッタリだ。もっともWeb日記書きのなかにも「さっぱり」ではなく「べったり」した関係を求める人も居るし、ズケズケの度合いもさまざまなので、ひとくくりに論じることはできない。

 それから、辻氏の御主張の最後の部分では携帯電話の話題がとりあげられていた。「【携帯電話が普及した】背景にも、関係に縛られたくないという意識が働いているようなのだ」ということだが、そういう「意識」が原因となって携帯電話の爆発的な普及がもたらされたのか、それともそういうツールを利用する中で結果的に非束縛関係志向が高まってきたのか、あるいはその相互作用なのか(←たぶんこれやろ)、EメイルやWeb掲示板書込行動を含めて考えてみる必要がありそうだ。

※6/12追記
辻さんにリンクのご挨拶のメイルを送ったところ、さっそくお返事をいただいた。ご許可をいただいたので、以下に転載させていただく。ご多忙にもかかわらずどうもありがとうございました[改行部分は長谷川のほうで一部改変]。
メールとウェブ日記、拝見しました。

 朝日の原稿は文字数の制限もあり、書ききれないところも多かったのですが、ウェブ日記のご指摘にあった点についてはあまり反論がありません。
 特に2.のご指摘にあった「多様な状況・文脈を押さえ網羅した上での実証的な研究が必要。質問紙型の意識調査結果の平均値を比較するだけでは確実な証拠は得られない」ということに関しては、今回、アンケート調査の限界を痛烈に感じたというのが、本音のところでして。

 実際のところ、これまで2回行った学生調査は、ぼかし言葉などの使用が本当に何かしらの対人意識と結びついているのか、結びついているとしたらどういった意識か、おおよそのあたりをつけようとしたpreliminary surveyにすぎません。ぼかし言葉に代表されるようなある種の若者語については、実証的な調査研究がまったく見あたらず、印象批評ばかりが語られる風潮に、とりあえず棹さしたいと思ってとりかかったものです。近々行う予定の再調査にしても、携帯電話やメールなどによるコミュニケーション行動を調べることが主目的で、ぼかし言葉についてはやはりpreliminaryの域を出るものではなく、今後どう研究を進めたものか悩んでいるところです。というのは、「多様な状況・文脈を押さえ」る必要性は痛く感じるものの、実際にその点を押さえた調査を行うとすると並大抵の労力で済むはずもなく、また、背景に何かしらの対人的心理要因がからんでいるとしても、必ずしも言語使用者がそれを意識しているとも限らないため、どう調査計画を組めば有効かつ実際的なものやら…。科研費が百万円単位でつきでもすれば話は別なのですが、いかんせん一人で作業をこなしているのが実情なもので。

 ぐちはさておき、ご指摘のあったそれ以外の点について、簡単にコメントを返しておきたいと思います。

 1.言葉遣いは「周囲に染まってしまう」という側面があることについてですが、もちろんご指摘のとおりで、これまでの2調査でも、ぼかし言葉などを使用するかどうかと、周囲の人からこうしたことば遣いを聞くか、マスメディアを通して聞くか、との間に、最も高い相関がみられています。私としても、ぼかし言葉が使われる要因として最も大きいのは「周囲に染まってしまう」からだろうと考えておりますが、他にも要因があるとしたらそれは何かを調べようとしたのが私の調査の目的です。というのは、朝日の原稿中でも少しふれましたとおり、「とか」「みたいな」などは若者語には珍しく単なる流行語の域を超えて長く使われ続けていますし、また、これまでの若者語とは違った語用論的特徴を備えています。つまり、従来の若者語(=流行語)の枠からはみだすようなことば遣いであり、単なる流行や周囲からの影響というだけでない要因がはたらいている可能性もあるだろうと思ったからです。「同じ人のなかでも、「傷つく」あるいは「束縛」回避のために使うのは100回中1回限り、あとは周囲に合わせるだけで使っているという場合もありうる」でしょうし、それがおそらく実情だと思いますが、その“100回中1回”ははたして何なのか。これまでの若者語については“100回中0回”だったとすれば、その点を調べてみることにも価値があると思っているのですが、調査手法上の限界なのか、今のところそれが何なのかははっきりしません。あ〜(嘆息)、といったところです。

 4.「傷つく」ことの回避と「束縛」の回避は必ずしも排他的なものとは言えないことについては、別の角度からですが、私もその見方をとっております(原稿中ではわかりにくかったかもしれませんが)。これらは同一人物に対しても両立可能ですし(本音でズケズケ語り合う表層的でない(≒傷つくことを恐れない)間柄であっても、さっぱりした互いを束縛しない関係があり得る)、これら2軸を掛け合わせて、傷つき回避&束縛回避、傷つき非回避&束縛回避、傷つき回避&束縛非回避、傷つき非回避&束縛非回避の4パターンがありうると思っています。これら2軸がパラレルに論じられてきたのがこれまでの若者論の主論調だったので、それに対する批判が私の原稿の一つのポイントだったのですが、どうも今回の文章はあまりその点がうまく伝わらなかったかもしれません。別の方からいただいたメールでも、同じ点について質問がありました。自分の文章力の足りなさを感じています。

 以上、取り急ぎのご返信にて。

2000.6.12.
【ちょっと思ったこと】

【今日の畑仕事】

サラダ菜とタマネギ収穫。
【スクラップブック】