じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
ビカクシダ。プラチセリウムともいう。夏に南向きの簾越しの風通しのよい場所で育てたところ、葉の長いもので50cm、全体で高さ80cmに達する大株に成長した。肥料は何も与えていない。 |
【思ったこと】 _10122(月)[心理]食教育の必要:栽培から生ゴミ問題まで 1/19の日記の続き。食品栄養学の先生のお話の中では、「食教育」の大切さが強調された。極端な事例かもしれないが、大学で調理実習では、「サヤエンドウとサヤインゲン」、「レタスとキャベツ」の区別がつかない女子大生がいるという。あるいは区別はできても、どの季節が旬なのか分からない。魚は切り身しか扱えない。そのわりに、凝ったお菓子はちゃんと作れる。 知識の偏りは小学生にも見られる。周囲に畑が残る地域の小学生であっても、ブドウのようにぶらさがっているトウモロコシや、オクラのように上を向いたナスの絵を描く子どもがいるらしい。学校で教える教科内容だけは身につけていても、日常生活体験の中で自然に学ぶ機会が少ない。 こうした背景の1つとして、食生活の「中食(『昼食』と区別するたびに『ナカショク』と呼ばれることがある)」化を挙げることができる。「家で作って食べる」という「内食(ナイショク)」、「外で食べる」という「外食(ガイショク)」とは別に、すでに調理されたものを「買ってきて食べる」という「中食」の比率が増えると、子どもは素材に触れることができない。こういう意味で、単に紙の上の知識ではなく、「栽培〜漁獲・収穫〜加工・保存〜調理〜食事」のすべての連鎖を含めた体験学習型の食教育を導入していくことがぜひとも必要であると思った。 講座出席から大学に戻る途中、たまたま、NHKのラジオで「生ゴミ」の話題を取り上げていた。ほんの10分ほどしか聞けなかったが、その中で
1/22の月曜日は、ちょうど学外非常勤で出講している「食心理学」の最終回であった。この日はまず生活習慣病防止の観点から食行動の自己管理の大切さを説いたが、これに上記の耳学問を加えて、
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【ちょっと思ったこと】
定年後の「田舎生活」の落とし穴 1/23の朝日新聞くらし欄で、北海道・駒ヶ岳山麓の別荘地の話が取り上げられていた。この別荘地にはすでに約300人の定住者が居るが、中には夢やぶれて都会に住み直す老夫婦が出ているという。その原因は駒ヶ岳の危険な状態のほか、隣接する自衛隊の演習の騒音、水温の低い温泉などにあるが、それ以上に大きな問題が人間関係にあった。隣人からは何の挨拶もなく、おまけに朝から晩まで日曜大工の騒音を発する。噴火時の緊急連絡網も「まず自分が逃げることが第一で連絡に責任が持てない」という理由で消滅し、ついには町内会も解散した。記事で紹介されている声の中では
駒ヶ岳には今から20年以上前に2回登ったことがあった。大沼公園のユースホステルで自転車を借りて、登山口の途中から徒歩で登り詰めるわけだが、そういえば途中に大きな別荘地があった。今回紹介された場所もその付近のことを言っているのだろう。老後にこんな場所で暮らせたらさぞかし快適であろうと思ったが、思わぬ落とし穴があるものだ。 もちろん、ここに住むすべての人が不満を抱いているわけではなかろう。西欧型の家屋ばかりが建ち並び、塀をいっさい作らず、趣味の一致する人たちが活発に交流している団地が紹介されたこともあった。 とはいえ、伝統も文化も無く、特定の世代だけが分離して住むような新興団地のもとでは、思わぬ落とし穴に遭遇することも大いにありうる。高齢化が進めば住人どうしの助け合いは不可欠となる。ところが、長年カイシャや子育てに尽くしてきた人々にとっては、せめて老後だけでも、人間関係のしがらみから解かれ「じぶんのため」だけの悠々自適の生活をしたい。このあたり、根本的な解決は難しそうだ。「業者は都合の悪い情報は言わない。土地や建物を買う前に、少なくとも一カ月や借家住まいでもしてその地域に暮らしてみるべきだ」という消極的な自衛策で対応するしかないのだろうか。 [※]1/25追記元の記事がアサヒコムの暮らし欄にアップされていました。 |