じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 18年前のドゥシャンベ(タジキスタン)の動物園。旧ソ連による思想統制はあったかもしれないが、少なくともあの頃は平和だった。 [今日の写真]



9月15日(土)

【思ったこと】
_10915(土)[教育]21世紀の大学教育(7)5教科7科目入試で学力低下は改善されるか?(後編)選抜試験か資格試験か/「基礎学力」ってなあに?

 昨日の日記の日記でも記したように、「5教科7科目」提言は、
高校教育で目標としている基礎的な学力を国立大学入学者のすべての者に備えて欲しいと.....
という趣旨で提案されたものであるという。そこからは、
  • 入学者のすべてに備えてほしいという趣旨であるならば、資格試験として利用すべきではないか。
  • 大学入学者にとって真に必要な基礎学力とは何なのか。
という2つの疑問が生じてくる。

 同じ5教科7科目を課す場合でも、資格試験として実施するのか、選抜試験として実施するのかでは高校における学習の仕方は大きく変わってくる。
  1. 資格試験であるならば絶対評価、選抜試験ならば相対評価(つまり偏差値による比較)という違いがある。
  2. 資格試験では、到達度が唯一の目安となる。選抜試験も、到達は基本ではあるが、相対順位にも目を配る必要がある。
  3. 資格試験ならば、全員一丸となって最低基準をクリアしようと努力する。遅れている生徒への支援も充実する。選抜試験は、原則として他者との競争である。
  4. 資格試験の場合は受験生全員が「仲間」、選抜試験の場合、同一志望先の受験生はお互いに「敵」。
  5. 資格試験は車の運転免許獲得のようなもの。教育の質を上げれば全体の合格率は上がる。選抜試験の場合は、教育の質を上げても全体の合格率は変わらない(=定員/志願者)。
  6. 少子化により定員割れが生じた場合でも、資格試験ならば一定水準を確保できるが、選抜試験の場合は、どんなにレベルが下がっても合格にせざるをえない。
  7. 基礎的な学力の試験だけでは大多数が満点をとってしまう。これでは点数に差がつかず選抜に使えない。そこで、選抜試験の場合は、どうしても難問を解く力、あるいは短時間でたくさんの問題を解くような力を求めることになる。このことが受験生に過重な負担を強いることとなり、また、受験テクニック優先の教育を生み出す。



 そもそも、大学入学者にとって真に必要な基礎学力とは何なのだろうか。この点でも新たな疑問が出てくる。
  1. 「高校を卒業した」こと自体は、なぜ基礎学力の証明にならないのだろうか。「高校教育で目標としている基礎的な学力」の身についていない高校生を卒業させているとしたら、高校はちゃんとした教育を怠っていることになるのではないか。
  2. 高校で教えても大学卒業の頃に忘れてしまうような学習内容は「大学入学者にとって真に必要な基礎学力」とは言えないのではないか。
 高校に進学した生徒たちは、一度ぐらいは「こんなこと勉強してどういう役に立つの?」という疑問をいだく。それに対する親や先生の答えは、おそらく

いますぐには役立たないけれど、大人になった時には必ず役立つのよ。

などと、エエ加減なことを言う。しかし、

じゃあ、お父さんやお母さんは、何でこんな問題が解けないの。解けなくてもちゃんと生活できているじゃないの。

などと言われると返事に窮する。

専門分野に関連深い科目を除けば、高校で学んだことの大部分は、大学に入ってから半年ぐらいのあいだに、すっかり忘れてしまうものなのだ。

 おそらく、子どもたちを説得できそうな答えとしては、

役に立つか役に立たないか知らないけれど、とにかく大学に合格するためには勉強するしかないのよ。大学入れないとイヤでしょ。だったら、勉強しておきなさい。何のために役立つのかは、大学に入ってからじっくり考えればいいのよ。

というようなことになる。

 じっさい、センター試験の時にエラそうな監督をしている大学教員だって、果たして、自分の大学に合格できるだけの総合点をとれるかどうかは甚だ疑問である。私自身、英語と現代国語と数学と地学の一部を除けば、5教科7科目のどれをとっても、100点満点で20〜30点ぐらいしか取れないのではないかと思う。

 いっそのこと、センター試験の問題を大学の評議員全員に解かせ、それぞれの最低点を入学資格とすればよいのではないかと思ってみたりする。




 「将来役立たないことであっても、高校の段階で何らかの学問分野の高度な内容を教えておけば、基礎的な思考能力の養成に役立つのではないか」という考えもあるかもしれない。しかしこちらでも記したように、特定分野の能力を鍛えることは、思ったほどは汎用化できない。「ラテン語を学べば、普遍的学習能力が鍛えられる」などという説はとっくの昔に否定されているのである。また、仮に、特定分野での鍛錬が何らかの思考能力を養うとしても、どういう分野で学ぶのかはもっと多様であるべきだ。第二外国語はもとより、コンピュータ言語、さらには囲碁や将棋に至るまでもっといろんな分野で特技を磨けばよいと思う。すべての高校生に一律7科目を課す必要は必ずしもない。

 いま普通高校で教育されている内容が21世紀の日本を背負う世代にとって本当に必要な分野を網羅しているのかどうかも見直していく必要があると思う。たとえば、心理学はなぜ高校で教えないのか、「環境学」のようなものは要らないのかなど.....。そういう根本的な検討を行わずに、何十年来ほとんど変わらない既存の教科や科目の枠組みの中だけで科目数をいじくっていても、21世紀を担う人材を育てることはできないのではないか。