じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
白い彼岸花。花屋さんでは「リコリス」あるいは「白花曼珠沙華」などの名前で売られている。2003年9月22日の日記や2004年9月16日の日記に関連記事あり。 |
【思ったこと】 _50921(水)[心理]日本心理学会第69回大会(11)詩的表現のもつ語りの力(2)こゝいらはふきの花でいっぱいだ 日本心理学会第69回大会の参加感想の11回目。 一日空いてしまったが、 【9月11日 夕刻】WS70 詩的表現のもつ語りの力-----質的心理学の方法論(2)(企画・司会:やまだようこ、話題提供:やまだようこ、サトウタツヤ、矢守克也、指定討論:南博文、本山方子) について感想を述べさせていただく。 昨日も述べたが、ワークショップではまず、やまだようこ氏が宮沢賢治の『春と修羅』の一節)を朗読された。この作品は、こちらから読めるようになっているので該当部分をリンクさせていただく。 ●林と思想(初版本『春と修羅』) 中学生の頃までは私自身も宮沢賢治の作品はかなり読んだことがあるのだが、ここにリンクされた「林と思想」は記憶に残っていなかった。しかし、やまだようこ氏が数回朗読されただけで、すっかり頭に焼き付いてしまった。そういう意味では確かに、詩的表現のもつ力は大きいと言わざるを得ない。 もっとも質的心理学の研究において詩的表現を扱うことにどういうメリットがあるのかについては、イマイチ分からなかった。簡潔性という点ではすぐれているとは思うが、解釈が分かれることもある。質疑の時間、私からも発言させていただいたところであるが、例えば蕪村の俳句などもいろいろに解釈される場合がある(2005年4月29日の日記参照)。今回取り上げられた宮沢賢治の詩の最後の部分 ●こゝいらはふきの花でいっぱいだ なども、いろいろな解釈が可能であるように思う。念のため、ネットで検索したところ、池澤夏樹「言葉の流星群」を引用したコンテンツがありそこでは ぼくは昔からこの詩が好きで、好きだとは思いながらも、なぜこんなに心ひかれるのかよくわからなかった。ここにあるのは自分と世界の呼応の瞬間である。自分はここにいる。世界は目の前に開けている。しかしそれだけでなく、自分は世界の一部でもあって、だから自分の考えが「茸のかたちのちい〔さ〕な林」のところへ「ずゐぶんはやく流れて行」くと感じられる。この自分と「ちい〔さ〕な林」の間の距離感が実にいい。自然に向って自分の思考を投射できる能力のおかげで、自分は自然の中にあって孤独ではない。自然から疎外されていない。だから、「ふきの花でいつぱい」というその場の光景によっても自分が祝福されていると感じることができる。』という解釈がなされていた。祝福されていると言われればそうなのかなあとも思うが、単に季節感だけを表現しているようにも思える。 なお、そもそも、なぜ、やまだようこ氏がこの詩を取り上げたのかということだが、これはおそらく、上の解釈にもあるような「自分と世界の呼応の瞬間」が簡潔かつ的確に表現されている事例として紹介されたのではないかと思う。『春と修羅』の序の部分にも、質的心理学や現場心理学の発想の根本が表されているのかもしれない。
次回に続く。 |