じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]
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 シンポジウム参加のため立命館大学・衣笠キャンパスを久しぶりに訪れた。キャンパス内で印象に残ったのは建物の周囲に自転車が殆ど無かったことだ(写真には約1台が写っているが)。手前の看板には
構内での自転車駐輪は禁止しています。
 よってここに置かれていた自転車は放置されたものと見倣し、施錠・除去しました。
 施錠・除去した自転車の受け取りは学生証持参の上キャンパス管理室まで
と書かれてあった。なるほどこれだけ徹底すれば、右上の写真のような駐輪問題(2006年5月30日の日記参照)は解消し、バリアフリーの保障と学内景観が保たれるというわけか。自転車通学者にはどう配慮しているのだろう?



3月21日(木)

【思ったこと】
_70321(木)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(11)構造構成主義の医療領域への展開(1)

 3月11日に早稲田大学で開催された

第一回構造構成主義シンポジウム:わかりあうための思想をわかちあうためのシンポジウム

の感想の10回目。

 第二部の鼎談に引き続き、

●構造構成主義の医療領域への展開

というパネルディスカッションが行われた。

 公式サイトに記された趣旨は
信念対立に悩まされることの多い医療現場における問題に焦点化する。京極真氏はチーム医療と異職種間連携について、斎藤清二氏は医学と臨床実践、高木廣文氏には看護学に、構造構成主義を導入した新たな枠組みについてそれぞれ論じていただく。それを踏まえて指定討論の先生方に議論をしていただき、また会場の皆さんの意見も拝聴しながら、建設的に議論を展開していきたい。
となっていた。司会の川野健治氏を初め質的心理学の研究ではよく知られた方々が登壇されていた。

 パネルディスカッションではまず、中心人物のお一人である京極氏から医療現場における信念対立や構造構成主義による対立解消の道筋の事例が紹介された。

 京極氏によれば、医療の現場では、個人内においても、医療者と患者の間でもさまざまな信念対立がおこりやすい。例えば「市場原理優先の医療とするか、コストを度外視して最善の医療をめざすか」、「リスクの高い治療を実施するかどうか」、「医師の判断か患者本位か」などなど(←長谷川の記憶とメモによるため、あやふや)。これらはしばしば存在をかけた対立となる。

 ではどうすれば対立は軽減できるのか。京極氏の創出したツールは、「現象」、「構造」、「関心相関性」をキーワードにしており、これらは特定のコンテンツに依拠しないため何にでも妥当するというものであった。話題提供の時間が限られていて、次々とスライド画面が変化したため、納得の域に達するのは困難であったが、要するに、
  • 正当性を絶対化することは不可能
  • 正当性のズレは当たり前
  • 正当性は関心によって規定される
という前提を受け入れた上で、「○○は××によって決まる」という公式にあてはめて対立解消をめざすという内容であると理解した。

 京極氏のスライドの最終画面には
互いの関心を対象化することで当事者間の対立の増幅を低減する可能性を担保する
と記されていたと記憶しているが、うーむ、「対立の増幅を低減する可能性を担保する」という言い回しは難解であり、私にはよく理解できなかった。「対立を解消できる」と断言できるならスゴイことだと思うが、「低減する可能性を担保」できるものは他にもいろいろあり得ると思う。

 例えば、外国人とのあいだに信念対立が起こった場合、

●互いの英語コミュニケーション力を高めることで、当事者間の対立の増幅を低減する可能性を担保する

とも、

●異文化理解につとめることで、当事者間の対立の増幅を低減する可能性を担保する

とも言えるように思う。「互いの関心を対象化する」が決定的な役割を果たすのかどうかについては、関連書を拝読した上で無いとなんとも判断できない。




 もとの、医療現場の信念対立の問題だが、狭義の医療行為の現場と、患者の長期的なQOL向上や病院経営や医療行政などの広義の現場では、対立の性質はかなり異なっているのではないだろうか。前者の場合、例えば救急救命医療の現場では、何はともあれ命を救うことが第一となる。ここでは、とにかく、指揮官としての医師の適確な判断とリーダーシップが重要であって、信念対立解消などという呑気なことを言っているヒマはない。同じことは、(平和であることが第一ではあるが)軍事作戦遂行、大規模災害の救助・救援などについても言える。

 つまり、対処すべき問題によっては、信念対立などは粉砕し、優秀な指揮官のもとで、命令指揮系統を完璧にしておいたほうが良い結果をもたらす場合がある。信念対立の問題は、もっとグローバルな国家間、民族間、宗派間の対立、あるいは、ローカルなコミュニテイ内の意見対立の解消などに限定的に役立てるべきではないかなあ、というようにも思えた。


 次回に続く。