じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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§§ 2009年版・岡山大学構内でお花見(16)アメリカフウに見る新旧の交代

 時計台前のアメリカフウ(モミジバフウ)。2008年4月15日の日記にも記したように、アメリカフウは雌雄同株であり、上向きの雄花と、下向きに垂れ下がる雌花をつける。3月下旬の時点ではまだ雌花は出ていない。枝のあちこちには昨年できた実がまだいっぱいくっついている。大学構内では年度末を控えて、定年退職の先生方の荷物をトラックに積み込む光景と、4月からの新入生が親子連れで散策する光景が見えるが、このアメリカフウの枝でも、着実に「新旧交代」が進んでいるように見える。


03月30日(月)

【思ったこと】
_90330(月)[心理]老荘思想とひきこもり(5)無為自然

 3月26日の日記の続き。

 老荘思想の重要な考え方の1つに「無為自然」があるという。とは言っても、私のような素人には、その神髄を理解し納得することはなかなか困難である。

 ネットでザッと検索してみたところでは、こちらのサイトに、
  • ...「無為の事に処り」とはどういうことでしょうか。この無為というのが事柄に対処する老子の基本的な態度で、言葉通りに受け止めれば、「何もしない」ということになります。何かをしようとすれば、必ずその前に価値判断をしなければなりません。あれこれ考えていたのでは、相対的な世界の認識の混乱から抜け出せないわけです。「無為の事に処り」とは、簡単にいえば相対的対立を超えた立場に身を置くということになります。
  • ポイントは「道は常に無為にして、而も為さざるは無し」ということです。「無為」であることによって何事でも成し遂げることができる。つまり、ただ判断不能だから無為(何もしない)ということではなく、そこから自ら化すエネルギーを引き出すことができる。だから無為であるべきだと言っているわけです。
  • 老子の思想はよく「無為自然」と呼ばれますが、実はそのままの語句が使われている箇所はあまりありません。また、この場合の「自然」というのは、いわゆるネイチャーではなく、「自ら然る」という働きです。なぜ「自ら然る」のかといえば、万物はみな道を内在させているからということになります。
  • なぜそうできるかというと自分の相対的な価値判断をさしはさまないからです。かれこれの区別を超えているわけです。もちろんそこには自分の利害損得もありません。欲望には動かされない。そして、ここが大事なところですが人情にも動かされない。言葉を変えていえば政治は非情なものなのです。
といった記述があった【長谷川のほうで一部省略させていただいた】。今回の研究会のタイトルには「ひきこもり」が含まれていたが、上述の引用部分を拝読する限りでは、「ひきこもり」は無為であるように見えるので老荘思想に通じるところがあるといった素人考えは通じないように思われた。

 もっとも、上述の引用部分だけから判断すると、無為というのは主観や相対主義を廃した純粋な自然科学的判断に近いようにも見える。私自身の勉強不足をますます痛感してしまう。




 では、行動分析学的には「無為」とはどういうことを言うのだろうか。

 まず、現象的には、行動が生じていない状態のことを言う。これは間違いないだろう。

 行動分析学ではしばしば、「死人テスト」ということが言われる。この起源については、島宗先生のブログ(2006年6月2日)に詳しく書かれているが、要するに、
「死人テスト」とは「死人にもできることは行動ではない」という簡易なルールで、たとえば「静かにする」とか「廊下を走らない」などを標的行動(指導目標)としてしまう過ちを減らそうとする試み。
ということであり、「〜しない」という否定形や「〜される」という受身形は、行動としては扱わない、というか指導目標としてはならないという考え方である。

 もっとも、ある人が、いくつかの行動機会という選択肢を能動的に選ぶという段階において、「〜に身を任せる」、「成り行き次第でいこう」、「リーダーの言われるままに動く」というような判断をすること自体は(死人にはできないので)立派な行動と言える。しかし、選択された後の状態を観察する限りにおいては、「何もしていない」ようにも見えてしまう。

 「何もしない」ということのもう1つの重要なポイントは、それが、
  1. してもしなくても何も変わらないという消去の結果であるのか
  2. 特定の行動に対して嫌子が出現したり好子が消失したりすることによる弱化の結果であるのか
  3. 行動しなければ自然に嫌子が消失したり好子が出現したりするが、行動するとそれらが阻止されてしまうという阻止の随伴性の結果であるのか
によって、文脈が大きくことなるという点である。上述の老荘思想の無為の定義は、どちらかと言えば、人間の行動とは無関係に生じる環境事態の変化を前提にしており、そういう状況のもとでの無為は、「阻止の随伴性による弱化」と似たところがあるようにも見える。これらの問題は「ひきこもり」の本質的な解決にも関連してくるように思うが、このことについては別の演題のところで詳しく考えてみることにしたい。


 次回に続く。