じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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2011年版・岡山大学構内の紅葉(12)京都の庭園風のモミジ

 理学部の駐輪所・喫煙所の裏側に、岡大構内でもモミジの紅葉が最も美しい場所がある。駐めてある自転車が若干目障りだが、京都まで紅葉見物に出かけなくても満足できる絶景。

 主な過去記録は以下の通り。

12月5日(月)

【思ったこと】
_b1205(月)日本質的心理学会第8回大会(10)「個性」の質的研究(9)〜「平均化」と「純粋化」〜個性をとらえるための2つのアプローチ(5)見られる恐怖と見られない恐怖

 昨日の続き。

 矢守氏の話題提供の終わりのほうでは、

見田宗介『まなざしの地獄』

に言及しながら、殺人事件の背景に、1960年代には「見られる恐怖」、1990年代には「見られない恐怖」が関与していると指摘された。すなわち、1960年代の連続ピストル射殺事件では、貧困家庭、年少労働者の転職原因(社宅や個室の施設が足りない)といった背景があるのに対して、1990年代の秋葉原の事件では、食っていくことは不可能ではなく、また、ケータイ依存傾向が広く見られるという点では、大きく異なっていた。そういう中で、1960年代では、マイナスの視線で見られることへの恐怖「まなざしの地獄」があり、1990年代では逆に、「(社会的に)俺は「透明な存在」ではないのか、まったく見られていないのではないか、という恐怖があったというようなお話であった。

 私自身の聞き取りが不十分であったことと、時間が限られていてかなり省略があったことなどにより、以上の部分が

〜「平均化」と「純粋化」〜個性をとらえるための2つのアプローチ

とどう関係しているのか、その場ではよく理解できなかったが、察するに、1960年代の「見られる恐怖」も、1990年代の「見られない恐怖」も、事件そのものの分析では、個別かつ質的に抽出されたものである一方、それぞれの時代に行われた大規模調査の中にも、それに対応する特徴がちゃんと表れているということを指摘されたかったのではないかと思われた。実際、1963年に行われた大規模調査の1項目「東京で就職して不満足な点」では、男性の20.3%、女性の36.6%が「落ち着ける室がない」と答えており、この比率はいずれも、「友だちがいなくて淋しい」や「自由時間が少ない」などの他回答を押さえてトップとなっていた。また、1990年代に行われた携帯電話についての大規模調査(出典不明)では、小学5年の18.0%が、中学2年の24.3%が「メールの返信がないととても不安になる」と答えており、「見られていないことへの恐怖」を示唆するものとなっていた。というようなことから、平均化と純粋化というコンフリクトをはらんだブリッジを指向することが大切であると主張されたかったのではないかと思われた。

 矢守氏が、話題提供の途中で紹介された

済んでから理論がさえる地震学(尾池和夫氏)

という言葉をお借りすると、殺人事件については、

逮捕後に推理がさえる犯罪学

という傾向が顕著であり、凶悪事件についてはしばしば、容疑者の屈折した人格形成とか、家庭環境が原因であるなどとして納得してしまいがちであるが、上掲の分析は、大規模調査とリンクさせているという点でそれを超えるものであると言えよう。但し、事件が起こってしまってから、事後的に、同時代の大規模調査結果の都合のよさそうな特徴を見つけ出そうとしているに過ぎないという批判はありうるとは思う。

次回に続く。