じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§  2月27日の日記で、、「岡山富士(備前富士=芥子山)」の「ダイヤモンド富士現象」が数日後に見られるはずだと書いたが、その後、東の空はずっと曇っていて、日の出を眺める機会が無かった。(3月3日朝はたぶん晴れていたと思われるが、東京宿泊のため撮影できず。)

 写真は、久しぶりに晴れた、3月11日朝の日の出の写真。すでに、芥子山よりはるか北側の位置からの日の出となった。ちなみに、3月11日は東日本大震災から1年目となる。地上でどんなことが起こっていても、太陽はちゃんと東から昇る。

3月10日(土)

【思ったこと】
_c0310(土)「質的研究の来し方と未来:ナラティヴを巡って」&「人生心理学:イメージ画と語り」(18)やまだようこ氏の最終講義(7)まとめ

 昨日の続き。この連載の最終回。

 最終講義の配付資料には、「人生のイメージ地図」のほか、「私と母の関係イメージ」についてもスライド13枚分の資料がついていてが、時間の関係で大部分はカットされた。

 講義の最後のまとめのところでは、
  1. 文化の違いや世代の違いを強調するよりも、「共通性」に芽を向ける。communicationとは、共通(common)をのものをつくるいとなみである。
  2. 人のこころは多様で複雑であるが、人が思い描く「こころのかたち」の基本形には、驚くほどの共通性がある。
  3. 共通性、類似性をふまえつつ、ズレのある重なり、変異、バリエーションを見る。
  4. 新しい見方に変えるのではなく、複数の見方を重ねて両行する。
  5. 「過去」が「現在」をつくるという直線的時間や因果関係の物語から脱しよう。
  6. 「未来」に向かってどのような物語をつくるかが重要。「未来」がUターンして「現在」をつくる。
  7. イメージが現実をつくる。
  8. 不幸な幼児期でも物語を意味づけを変えられる。
  9. 「ない」ものがはぐくむイメージと想像力。
  10. 「不在のコミュニケーション」
というようなことが強調された【配付資料からの抜粋。一部改変】。

 上掲のなかで、1.〜4.の点はまことにもっともだと思う。ただし、これまで拝聴した内容からみると、欧米的な見方と日本的な見方を重ねるというよりは、「西欧文化中心の概念を問い返し、日本文化に根ざしたものの見方を、多文化に共通する基本コンセプトとして国際発信する。」というお言葉の通り、日本文化独自の視点から、「複数の見方を重ねて両行」しているように思えた。

 5.や6.もまことにもっともであるが、そうなると、幼児期の不幸な出来事などはわざわざ思い出して物語りで意味づけを変えなくてもよく、単純に、「人生はしょせん種々の行動の束」と割り切り、元日の日記にも述べたように、
その束は必ずしも過去・現在・将来を1本でつなぐようなものではなく、枯葉の形で可視化できるように、人生のある時点から始まってある時点で完結(達成する場合もあるし、失敗・断念することもあるし、別の行動に昇華していくこともある。よって、その枯葉の1枚が失われても人生全体がどうにかなるというものではない。また、過去のある断面と現在とでは、構成している枯葉が全くことなっており、何の連続性も無い、つまり別人になっているということだってある。
と考えてもよいように思える。

 なお、“「過去」が「現在」をつくるという直線的時間や因果関係の物語から脱しよう。”というのはその通りだとは思うが、「脱する」というのは、決意を新たにするだけで簡単にできるものではない。行動分析学的に言えば、いまの自分の行動は、過去の経験の中で形成された弁別刺激や習得性の強化刺激を含んだ行動随伴性によってコントロールされているのであって、過去から脱しようとすれば、別の弁別刺激を導入したり、新たな習得性好子や習得性嫌子を形成したり、あるいは既存の行動を消去するプロセスがゼッタイに必要である。それなしに物語の意味づけを変えるだけで今を変えることはできない、というか物語の意味づけを変えるという作業自体が、ルール支配行動的な意味での間接効果的随伴性の組み替えを含んでいるように思う。

 あと、科学的には存在が証明できないという意味での「ないもの」も、弁別刺激や強化刺激には十分になりうる。それらであっても、付加的な強化の随伴性の中で、提示や除去といった外部操作を行うことができる。例えば、悪霊というのは、科学的には「ないもの」であるが、それを信じている人にとっては、病気や災害と同じような嫌子になっており、悪霊から逃れるための負の強化、悪霊の出現を阻止するための「嫌子出現阻止の随伴性」は十分に成り立つ。当人から悪霊の影響を取り除くためには、科学的な説諭も1つの方法ではあるが、おまじないやお祓いであっても、当人の行動変容に効果があるならば有効な行動随伴性操作ということになる。広義の「意味づけを変える」操作に、こうした宗教儀式的なプロセスが含まれていたとしても驚くにはあたらない。

 というようなことで、今回の連載はこれで終了。シンポジウムと最終講義を合わせて実質3時間半程度の短いひとときであったが、得ることのきわめて多い、意義深い内容であった。