じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§ 2012年版・岡山大学構内でお花見(23)シラーとシラン

 文法経・講義棟前に咲くシラー(手前)とシラン(後ろ)。シラーは花が開き始めの王冠状の時のほうが豪華に見える。どちらも丈夫で簡単に殖やすことができる。

 ※岡山大学構内の花だよりのアルバム(追記更新型)をLife-Xに公開中です。随時追加していきますので、時たま覗いていただければ光栄です。




5月4日(金)

【思ったこと】
_c0504(金)社会と科学技術の関係(3)専門的判断に基づく決定と合意形成の違い

 5月2日の続き。ガイダンス科目では言及できなかったが、もとの番組の最終回では、

 第4回「科学技術とどう向き合うべきか」

という話題が取り上げられていた。リンク先の番組案内には、
いま毎日のように使われる「国民的討議が求められている」という言葉。しかし、その「国民的討議」とは具体的にはどのようなものなのか? 国民・住民の意見はどうすれば反映させられるのか? アンケート調査・パブリックコメント・討論番組・国民投票・市民参加型の議論・国会議員の議論・臨調……。
現代社会の中で大きな役割を果たしている科学技術について、われわれはどのように関与していくべきか。大震災・原発事故を念頭に討議し、社会的意思決定の在り方を探ります。
となっており、実際、受講生(大学院生)たちからも色々な方法が提案されていた。

 国民の生活に直接影響を及ぼすような諸問題が「国民的討議」にかけられること自体は民主主義国家として望ましいことであるとは思うが、現実にはすべての国民から意見を収集することはできないし、抽選という方法は必ずしも適切なサンプリングとは言えないし、また、いい加減な知識やちょっとした言説に惑わされやすい人々が多数を占めていた場合の決定が本当に正しい方向に進むとは限らない。場合によっては、(適切な外部評価が機能し、審議の過程が透明化されているという前提のもとで)専門家集団に判断を委ねることもあってよいのではないかと思う。

 では、どういう場合に「国民的討議」が求められるのか、どういう場合は専門家集団の判断に委ねればよいのか? その目安は、将来の予測にどこまで専門的知識が求められるのかという点と、合意形成の必要性の度合いという点のバランスによるのではないかと私は思う。

 例えば、オリンピックを日本に招致すべきかどうかとか、国会議員の定数を半分にするべきかどうかというような議論は、決定しても否決しても、国民的合意が形成された上での結論であるならそれで構わないと思う。もちろん、専門家各位はそれぞれの立場から、賛否についての根拠や、メリット、デメリットを論じるであろうが、そもそも、絶対的にどちらが正しいというような主張はできるはずがない。そういう場合には、何が正確かというよりも、誰がどういうプロセスで判断したのかということのほうが重要である。民主主義国家であれば、国民全体がどう判断したのかが、最も優先されうべき結論ということになる。

 いっぽう、海外から新型の感染症が持ち込まれる恐れが出てきたような場合は、専門家の手で、検疫体制が強化される。その場合、どういう手段を講じるのかについては、事前に国民的合意を形成しているヒマはないし、その必要もない。局地的豪雨、火山の噴火などに伴う避難指示も同様であって、まずは専門家の判断にしたがうのが妥当である。もし後日判断に誤りがあったことが判明した場合、国民は、当該専門家のその時点での判断に落ち度が無ければそれ以上責めることはせず、むしろ、今後の専門家集団の選び方や緊急対応体制の改善に注意を向けるべきである。

 このWeb日記で何度か書いているように、私は、裁判員裁判制度には断固反対である。理由は、こちらの連載等に記した通りであり、そもそも、有罪か無罪かの判断は専門家(この場合は裁判官)が、あらかじめ定められた手順にのっとって専門的に判断するべき事柄であり、一般市民の素人判断で結論がひっくり返るようなことになれば法治国家とは言えないと考えるからである。また、抽選などで選ばれた裁判員は、決して、市民全体の意見を代表しているわけではない。統計的に妥当なサンプリングとも言えない。

 もとの番組で取り上げられていた原発の問題に関して言えば、原発がどこまで安全かどうかという技術レベルの議論は専門家集団の判断に委ねるべきであるとは思う。もちろん前提として、御用学者ではなく、さまざまな立場の専門家が議論し、審議のプロセスが透明化されていることが前提ではあるが。しかし、いずれにせよ、そのようにして出された結論は確率的な判断であり、「100%安全」というようなことは言えない。よってその上で、原発を存続させるべきか、それとも、数年〜数十年の辛抱を覚悟の上で、原発廃止を前提としてクリーンエネルギーへの転換を進めるべきかという判断は、国民的合意形成の対象になるのではないかと思う。もとの番組では、そのあたりの区別が曖昧であり、専門的知識がなければ判断できないような問題を含めて国民的討議の可能性を論じていたように思えた。

 科学技術の産物には絶対安全というものはない。例えば、自動車がある限りは交通事故の犠牲者は無くならない。船がある限りは沈没事故は起こる。であるからして、5月2日の日記に述べたように、どのような議論も、最終的には、利便性とリスクのバランスにより判断されることになる。そのさい、国民的討議、あるいは世界中の人々による討議が、どこまで長期的で全体的な視点に立てるのか、それとも目先の利益や自国の権益ばかりを優先しようとするのかは、まことに心許ない。悲観的な見方になってしまうが、人類という種が地球上で存続し続けるだけの叡智を持ち合わせているのか、いっとき繁栄したのちに絶滅の道をたどるのかは、何万年か後の別の知的生命体による評価を待つほかはないかもしれない。