【思ったこと】 _c1215(土)“叱りゼロ”社会はなぜ実現できないのか?(3)付加的随伴性としての「叱り」
昨日の日記で、「叱り」には以下のような4つのタイプがあることを指摘した。しかし、ここで重要な点は、これらが第三者によって付加された随伴性(=付加的強化随伴性、もしくは付加的弱化随伴性)であるという点である。
- 嫌子出現による弱化:問題行動が生じた時に嫌子(叱責、お尻を叩くなど)を与える。
- 好子消失による弱化:問題行動が生じた時に好子を剥奪する(おもちゃを取り上げる、月々のお小遣いを停止、食事抜き、テレビ禁止など)
- 嫌子出現阻止による強化:望ましい行動が生じなかった時に嫌子を与えることで、将来の嫌子出現を回避するような行動を増やそうとする(宿題をしなかったことを罰することで、罰を回避するための勉強行動が強化される【「勉強すれば罰を受けないで済む」】)。
- 好子消失阻止による強化:望ましい行動が生じなかった時に好子を剥奪することで、将来の好子剥奪を回避するような行動を増やそうとする(宿題をしないとお小遣いを与えない【宿題をすれば、お小遣い没収を阻止できる】、勉強をしなかった日はテレビを禁止するなど【勉強すればテレビ禁止を避けられる】)。
ちなみに、これらの随伴性自体は、第三者が関与しない自然随伴性(natural contingency)としても、我々の行動に影響を及ぼしている。例えば、山道を通行中、崖崩れの危険のある道を回避して迂回路を通るという行動は、嫌子出現阻止の随伴性によって強化される。いっぽう、遅刻すると罰を与えられるという校則のある高校で、罰を逃れるために(校門を通らず)塀を乗り越えて校内に入るという行動をとることも嫌子出現阻止の随伴性によって強化される(こちらの名シーン)。この後者の例は、昨日指摘した、「叱り」の弊害の1つ、「5. 罰的統制を逃れる「抜け道」的行動を強化してしまう恐れがある。」の典型と言える。しかし、危険な山道を迂回する行動も、罰を逃れて塀を乗り越えるという行動も、「嫌子出現阻止」という行動随伴性自体には違いは無い。後者が「弊害」とか「抜け道」と呼ばれるのは、あくまで、教育目的に沿った行動が形成されないためである。
要するに、「“叱りゼロ”を目ざす」という主張は、行動随伴性自体を悪としているのではない。第三者による付加的強化(あるいは付加的弱化)の手段として用いることを批判しているのである。
では、どんな場合でも「叱り」は行わないほうがよいのか。例えば、「確率はきわめて低いが、重大なリスクを伴う」というようなケースでは、緊急避難措置としてこっぴどく叱っておいたほうが良い場合があるかもしれない。例えば、
- 高層マンションのベランダで手すりに登って遊んでいる子どもがいた場合
- 深みにはまる危険のある川で子どもが遊んでいた場合
- 先の尖った棒でチャンバラごっこ(←私が子どもの頃の話)をしていた場合
これらのケースでは、万が一、自然の随伴性によって嫌子(転落、水死、失明)が出現した場合は取り返しがつかない。やはり、「叱り」という付加的弱化随伴性によって、危険を未然に防ぐ必要があるだろう。もちろん、中期的視点として、これらの遊びをしていた子どもたちを、安全な別の遊びに誘導する必要はあるが。
次回に続く。
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