昭和30年代の写真日記

1953年の記録


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[写真] 1953年11月。1歳1カ月。お気に入りのオモチャ。左側は53年9月、右は同11月撮影のもの。馬乗りになって動かせる機関車と、動物がギッコンバッタンと上下に動く手押し車の2つが最初のオモチャだったようだ。いずれも木製。使わなくなった後は風呂の燃料と化したようだ。 [2002.4.29.]

[写真] 1953年11月。1歳1カ月。小春日和の一日。縁側で「不二家のミルキー」を食べているところ。ちなみに、私の最も古い記憶は、2歳の頃、ひなたぼっこをしながら「ぼくは、ふたつなんだ」と思ったこと。しかし改めてこの写真を眺めると、ひなたぼっこをしていたのは1歳の頃からであり、「ふたつなんだ」という「記憶」は、反復体験されたことと「ふたつ」という言葉が結びついて作り上げられたフィクションであったようだ。 [2002.4.28.]

[写真] 1953年11月。1歳1カ月。母親に絵本を読んでもらっているところ。4歳頃からは、こちらのサイトの写真にあるように、「こどものとも」や、「大日本雄弁会講談社発行」の絵本、トッパンの絵本などをよく読んだと思う。「こどものとも」第1号の「ビップとちょうちょう」(1956年4月)の原本は今でも書棚に残っている。当時は、「書店からは、絵本はもっと赤いものでないと売れない、と言われた」とか。 [2002.4.27.]

[写真] 1953年11月。1歳1カ月。じぶん更新日記の4月24日付に掲載した写真。この金太郎、東京・自宅に長年置きっぱなしになっていたのだが、昨年6月に岡山に移動、本棚の上に飾ってある。右の写真は49年後に同じ金太郎を見つめているところ。 [2002.4.24.]

[写真] 1953年9月。生後11カ月。この写真は南向きの縁側で撮影されたもの。背後には八畳の床の間があり、ガラス越しに庭が見えている。幼少の頃のいちばんの記憶は、このように陽の光を浴び、風通しのよい部屋で過ごしたことにある。残念なことに、その後、東側には三階建てのアパートが造られ、南側も、敷地いっぱいに三階建ての家が密集するようになった。住宅環境に限って言えば、この50年近くで良くなったことは何ひとつ無いと断言できる。 [2002.4.24.]

[写真] 1953年9月。生後11カ月。初めて籠の鳥を見る。おそらくジュウシマツだと思う。その後、ニワトリ、セキセイインコ、文鳥なども飼っていた。 [2002.4.23.]

[写真] 1953年9月。生後11カ月。初めて池に触る。コンクリート製の流し台の排水口を詰めてリサイクルしたもの。母親の後ろ側にある金網は、ネコよけではないかと思う。浮かんでいるのはホテイアオイ、当時から人気のある水草だった。 [2002.4.22.]

[写真] 1953年9月。生後11カ月。アルバムを眺めているところ。もっともスキャナで拡大してみたところでは、アルバムは上下逆になっている。立っている男性と座っている女性が写っているのでどうやら父母の結婚写真のようだが、写っている顔と目の前にいる人の顔との対応ができていたのかどうかは不明。[2002.4.21.]

[写真] 1953年8月。生後10カ月。初めての夏を迎えた。エアコンなど無い時代なので、昼はもっぱら裸で過ごしていたようだ。左にある大きな箱は、マニアの方が大喜びしそうな蓄音機。こちらのサイトの一番上の写真にある正方形のボックス型蓄音機にそっくりだった。もっとも当時は骨董品的価値など考えたことはない。レコードを乗せる円盤は、その後、私がバスの運転手ごっこをする時のハンドルになったと記憶している。[2002.4.20.]

[写真] 1953年3月。生後5カ月。母親が洗濯物(たぶん私のオムツ)を干しているところ。ホームセンターなど存在しないので、物干し台も竿も、家に立てかけてあるハシゴもみな祖父の手作りによるもの。マル1は、手押しポンプの井戸。水道の設備はあったが、まだ電気洗濯機はない。すすぎはマル2のタライや洗濯板を使って井戸水で行っていたようだ。マル3は、不要となった木製の浴槽。薪にして風呂を沸かす燃料にしていたものと思う。写真の左上にちょっとだけ見えているのがその煙突。燃える物は風呂の燃料に、生ゴミは穴を掘って地中に。ゴミ収集の厄介になる物など1つもなかった。[2002.4.18]

[写真] 1953年2月。生後4カ月。母親に抱かれているところ。背後の縁側が懐かしい。[2002.4.16.]






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