じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
台風27号が接近しているものの、10月22日の夜はまだまだ晴れており、東の空に月齢17.5の月が輝いていた。写真の岩は、相当昔に南極から運んできた「蜂の巣岩」。この岩についてのエピソードは以下の日記ほかにあり。
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【思ったこと】 131022(火)高齢者における選択のパラドックス〜「選択の技術」は高齢者にも通用するか?(37)選択を階層的に捉える(7)選択のワープ/「選択機会」自体の価値 昨日の続き。 「選択を階層的に捉える」アプローチについていろいろ述べてきたが、まだまだ検討すべき課題がいくつか残っている。 1つは、ある「大きな選択」からその下層にある「小さな選択」に進んだ段階で、別の入れ子に「ワープ」してしまう現象である。 例えば、夫婦でレストランに出かけた時、夫はAコースのステーキ料理、妻はBコースの和食料理を注文したとする。メインディッシュが出たあたりで、ちょっと味見をしようと、ステーキと和食を取り替え、そのまま食べ続けるということもありうる。この場合、夫が途中から食べ始めた和食メニューは、Aコースという元々の選択の階層には無かった品々である。 同じ料理の喩えで言えば、庶民向けのレストランではたいがい、どのコース料理を選んでも、食後の飲み物の選択は、コーヒーか紅茶か?というような同じ選択機会になる。こうした、複線径路・等至性モデルモドキの階層というのもたくさんある。 もちろん、見かけは同じ選択肢ではあっても、それが選ばれた経緯によって価値や意味づけが異なることはあるかもしれない。日本に住み続けるか、発展途上国に移住するかという「大きな選択」をした後、レストランで「コーヒーか紅茶か?」というような選択機会があったとしても、日本国内のレストランと、移住先のレストランでそれらを選ぶ場合では、カップや味が同じだというだけで、複線径路・等至であったと見なすわけにはいくまい。 2つめの課題は、「選択」研究の根本に関わる大きな問題である。それは、「選択機会」自体の価値と、好みの実現との分離である。上掲と同様、例えば2軒のお寿司屋さんA、Bがあったとして、以下のような形式でお寿司が提供されていたとする。
食べるタイミングとか店の雰囲気とかいろいろな影響は無かったものとすると、残るは、自由選択の機会があったか(お寿司屋さんA)、無かったか(お寿司屋さんB)の違いだけになる。これらの満足度を比較すれば、「選択機会」自体の価値があるのかないのか、あるとすればどの程度なのかを測ることは可能であろう。 次回に続く。 |