じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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6月2日の日記で、図書館前の大量駐輪の話題を取り上げたところであるが、6月4日(日)の夕刻には、これらを上回る数の自転車が並んでいた。日曜日にこれだけ多くの学生が図書館を利用しているのは望ましいことであるが、安全対策上の問題が懸念される。6月5日には全学の安全衛生委員会が開催されるので、発言させていただこうと思っている。
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【思ったこと】 170604(日)ボーム『行動主義を理解する』(23)公的事象・私的事象・自然事象・架空事象(14)私的事象(4) 昨日に続いて、 ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社. の話題。 翻訳書71頁以降では、スキナーの「見られるものがないときの見るという行動」、及び、そのことをめぐるコピー理論の冗長な説明について言及されている。 このことに関連するが、スキナーはかつて「conditioned seeing」という言葉を使ったことがある【2016年4月3日およびその前後の日記参照】。リンク先でも述べたが、「見る」という行動は「いま、ここ」と直接リンクしており、過去に見た景色や、仮想の世界が目前に見えてしまうのは幻覚と見なされる。リンク先でも、 もし日常生活でそのような条件反応が頻繁に出現したとしたら、風景は一変してしまう。最近めざましい発展をとげている“超”仮想現実が、何の装置も使わずに、レスポンデント条件づけだけで実現してしまうことになるが、これでは環境にうまく適応することはできない。道路と妖怪を繰り返し対提示するだけで道の向こうから妖怪がやってくるように見えたり、レストランの前を通るだけで食べ物がぶら下がっているように見えたりしたら、安心して道を歩くことさえできない。と述べたところであった。であるからして、特定の場所で「過去の景色がありありと浮かんでくる」というのは、レスポンデント条件づけの条件反応ではなく、関係フレーム理論で言うところの関係反応や刺激機能の変換として理解したほうがスッキリするようにも思える。そのような説明では般化オペラントが基礎となっているため、脳内での「コピーとしての表象」を前提とする必要はない。 もう1つ、本書の図3.1では、「木の向こうをよじ登っている熊の絵」や「塀越しに犬を連れた兵士が歩いている絵」が例示されている。これは「感覚的な活動は、経験によって修正される。それが何の絵であるかという説明を受けることで、見え方が変わってくる」というもの。図の説明のところには「...他のすべての行動と同じように、見ることが文脈に依存することを示す。」と記されており、文脈という言葉が使われている点もまことに興味深い。もっとも、原書の初版と第三版では、同じ図が掲載されてはいるものの、キャプションはつけられていない。【翻訳書の基になっている第2版は手元に無いので未確認。】 次回に続く。 |