Copyright(C)長谷川芳典 |
|
ヒメウズの花。昨日掲載のキュウリグサと同様、小さな花だが、接写して拡大すると見応えあり。 なお、ヒメウズの葉はオダマキに似ており、雑草除去の際にオダマキだと思って残しておくと、こういう花が出てくる。 |
【連載】まいにち養老先生の名言(5)「冬を仰ぐ」その1 3月17日に続いて、養老先生の番組の話題。 2月6日の日記に記したように、このシリーズの中で私が録画できているのは、
「冬を仰ぐ」の回では、まず「人間のお悩み相談室」と称して、
このうち1.については「いろんな見方・意見があるでしょうけど、やっぱり好きじゃなきゃダメだね。いろんなことを考えてやるけど 結局本人が好きじゃなきゃダメですね」と回答された。 2.については、 「なんのために?」という質問は気をつけないといけない。機能主義って言うんですけど、物事に機能があって当たり前だと思っている。つまり、なんのため?...【葬式は】人に特徴的であり動物はやりません。意味が分からなくていい、そういうもんだと思えばいい。人が死んだら葬式はするものだと...というようなお答えであった【長谷川により改変】。 この2つの質問が私に寄せられたらどう答えるか?【←私に質問が寄せられることはまずあるまいが】、私なりに考えてみた。 まず1.については「好きじゃなきゃダメ」というのは、そう言ってしまえばそれまでだが、問題は、幼少時にどういう体験をすれば勉強が好きになるかということにある。例えば、幼少の頃に、身の回りの植物や昆虫に接する機会が多ければ生物学が好きになる可能性が高まるし、読み物に接する機会が多ければ文学が好きになる可能性が高まる。もちろん、遺伝的要因が得意不得意に影響を及ぼすことが全く無いとは言えないが、才能の有り無しといった問題は、もっと先になってその道を究めようとした時に初めて障壁になりうるものであり【例えば、いくら数学が好きだからといって一流の数学者になれるわけではない】、少なくとも小中高のレベルでの勉強の好き嫌いは、才能とは無関係に形成されるのではないかと思う。どの分野でもそうだが、まずはそれに接する機会を持つこと、そして、それに接する行動が適切に強化される環境にあることが大切。「適切に強化される」というのは、対象に接していく過程で、自分の疑問や困難が適切なレベルで自力で解決される(結果によって強化される)という意味。子どもが「なぜ?」と尋ねても誰も答えてくれなければ、「なぜ?」という疑問をもつ行動自体がしだいに消去されてしまう。 2.の葬式の話だが、養老先生は、「なんのために?」は機能主義だみたいな話をしておられたが、機能主義のすべてが目的論であるとは限らないように思う。葬式を機能主義的に捉えるというのは、葬式という一連の儀式的行為が、その社会でどういう役割を果たしているのかを明らかにすることではないかと思う。 例えば、葬式の際に、お坊さんが特別のお経を唱えることがあるが、「なんのために?」というのは、そのお経がどういう意味を持ち、宗教的に何を目的としているのかを明らかにすることにつながる。いっぽう、機能主義的な捉え方というのは、お経にどういう意味があるのかとか、何の目的であるとかということは重要ではない。葬儀の際に、親族や関係者が一同に会して、お坊さんの唱えるお経を聞きながら一定時間正座し、焼香するという一連の儀式が、社会的にどういう役割を果たしているのかを明らかにすることが重要である。 私自身の考えを述べさせていただくならば、葬式というのは故人のために行うものでは全く無い。死別の哀しみを癒やす、つまり遺族のために行うというのが第一の役割であるが、同時に、亡くなった人を中心に繋がっていた人々が一同に会して、これから先の人間関係を再構築するという役割を果たしている。場合によっては、葬式を機会に、亡くなった人の親族とのお付き合いを解消するということもあるらしい。 機能主義の話に戻るが、「キリンの長い首は何のためにあるの?」という疑問や、「高い枝の葉っぱを食べるために首が長くなった」という答えは、目的論的な発想である。機能主義的な発想は、そうではなくて、 ●キリンの先祖の首はもともと短かった。遺伝子の変異により、より長い首のキリンが出現した。より長い首のキリンのほうがエサを獲得する機会が増えたために、生き残る確率が増えた。その結果として、長い首のキリンが生き残った。 と解釈するべきであり、それを前提とした上で「キリンの長い首は結果として高い枝の葉っぱを食べる上で有利となる役割を果たしている」と捉えるべきであろう。 不定期ながら、次回に続く。 |