Copyright(C)長谷川芳典 |
※クリックで全体表示。 |
マズローの説【上段。但しマズロー自身はピラミッド階層の図は描いていない】と、それに代わる「人生は活動の束」のイメージ【下段】の再掲。 「活動の束」は、もともとは、やまだようこ先生の「人生のイメージ地図」にヒントを得て、2011年11月のウォーキング中に枯葉で即席にこしらえた「枯葉で作る私の人生のカタチ」を図式化したもの。その後、2012年1月1日に「新年の抱負」で言及した。再掲した図は2014年1月1日バージョンで提示したもの。 私自身はこのイメージの枠組みで隠居人生活を続けている。 |
【連載】チコちゃんに叱られる! マズロー説の限界とそれに代わるもの(4)「人生は活動の束」という発想 昨日に続いて、2月2日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。引き続き、 ●おばあちゃんになるとフラダンスを踊り始めるのはなぜ? の解説に登場した、マズローの『欲求の5段階』説について考察する。 元の話題からは外れるが、今回は、マズロー説に変わるものとして、「人生は活動の束」という発想について取り上げる。↑に述べたように、このモデルは2011年11月のウォーキング中に、足元の枯葉で即席にこしらえた「枯葉で作る私の人生のカタチ」が基になっている。ここで、「行動」ではなく「活動」という言葉を使っているのは、個別的・断片的な「行動」ではなく、より巨視的・中長期視点から相互に連携し構造化された「ひとまとまりの諸行動」を「活動」と呼んで区別しようという意味が込められている。 行動分析学では、(オペラント)行動は強化されることで増加したり、一定頻度で維持されたりするとされている。この枠組みは基本的には正しいが、日常の諸行動は個々バラバラに強化されているわけではない。例えば、スポーツ選手は日々基礎トレーニングに励んでいるが、個々のトレーニング行動を個別に強化する必要はない。「このトレーニングは試合で成果を上げるために必要である」と言語的に関係づけられたり、あるいは実際に成果が上げられれば、選手はツライ日々であってもトレーニング行動を続けるであろう。なお、言語を持たない動物でも、狩りや営巣などにみられる諸行動もそれぞれ一定のまとまりを持っている。彼らは別段、言語的に設定された目標を持っているわけではない。ある部分は生得的に身につけた行動連鎖に依拠しているが、経験の積み重ねにより精緻化し、一定の方向性を獲得するようになる。擬人的にとらえると、あたかも目的を達成するために諸行動を調整しているようにも見える。 2014年1月1日の日記に記したように、「活動の束」の基本的な特徴は以下の通りとなる。
「活動の束」モデルでは、放送で紹介されていたような「終わり良ければすべて良し」というようなハッピーエンドは想定していない。活動総量のピークは概ね20歳代後半から50歳頃となっており、その後はしだいに衰退し、死によって消滅する。放送では、「(マズローが言う)5段階の欲求は年をとるとともに満たされていき、晩年になって、人生最後にして最高の欲求がかなえられる」というような解説がされていたが、私はそのようなバラ色の老後には懐疑的である。それよりも、加齢による自然な衰えや慢性的な病気にかかることで、できることが限られてくる。そのことを受け入れた上で、「SOC理論(selective optimization with compensation)」に基づいて、最善の「活動の束」を実践していけばそれでよいのではないかと思っている。 ひとくちに「活動の束」と言っても、どういう活動が含まれるのかは、それぞれの人の生い立ち、生活環境、健康状態によってマチマチである。また、日常の諸行動をどのように束ねていくのかも自由である。宗教を強く信じている人にとっては、教義に基づいて必要とされる行動が言語的に関係づけられ、束ねられていく。死後の世界を仮想してハッピーエンドの最期を迎えたいと思っておられるなら、私は別段それを否定しない。もっとも私自身は、宗教活動に多大な時間を費やしたいとはこれっぽっちも思っていないが。 「活動の束」自体はあくまで記述概念であるが、現在老後の不安をかかえている方には何らかのヒントを差し上げることができるかもしれない。
次回に続く。 |