じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 半田山植物園・温室のチューリップ。屋外のチューリップはやっと芽が出てきたばかりだが、温室内ではすでに満開となった。


2024年2月10日(土)




【連載】チコちゃんに叱られる! マズロー説の限界とそれに代わるもの(7)最終回

 昨日に続いて、2月2日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。引き続き、

おばあちゃんになるとフラダンスを踊り始めるのはなぜ?

に関連した考察。本日で最終回。

 まず、昨日の日記で、多くの人は、
  • 労働は苦役。カネのために渋々働く。
  • 老後の趣味。長年の苦役から解放されてやりたいことに熱中する。
という2段階の人生を想定しているのではないかと述べたが、このことは必ずしも「お金」を悪者にしているわけではないことを補足させていただく。お金自体は、行動分析学でいう般性習得性好子であり、応用行動分析の実践現場で有用性が確認されている。また『地域通貨』のような形で、コミュニティの中の互助互酬を可視化する上でも有用であると考えられている。もっとも、資本主義社会においては、お金は「人に働いてもらうツール」として機能している。2009年1月24日の日記などに記したように、お金がお金として機能するためには、

●限られた資源(食物、土地、建物、道具など)のうちの一部が占有されていること

という条件が必要となる。そういう条件下では、人々は資源を持っている人のために働き、対価としてお金を受け取り、必要とする食べ物や衣類や住居を手に入れる。そういう意味では、「カネのためにしぶしぶ働く」という見方は正しい。行動分析学的に言えば、人々は、『好子出現の随伴性』ではなく、『好子消失阻止の随伴性』(もしくは『嫌子出現阻止の随伴性』)によって働かされているのである。このことは、
  1. 国民全員に1人あたり5億円を配る。
  2. あらゆる資源が好きなだけ手に入る。
というような条件でお金の機能がどうなるのかを思考実験してみればよい。1.ではインフレになるだけで誰一人豊かな暮らしができるようにはならない。また2.では、いくら大金持ちでも他者からサービスを受けることはできなくなる。その場合は、助け合いや互助互酬に頼るほかはない。




 元の話題に戻るが、昨日までの日記で『自己実現』の話題をいくつか取り上げてきたが、『人生は活動の束』という観点から見れば、人生を考える上で、『自己』はそれほど重要ではないようにも思える。2月7日に示した図(下段)からも見て取れるように、人生の中で活動の束は次々と入れ替わっていく。なので、活動の束の中身は20歳代と60歳代では殆ど別物になってしまい、同一人物であるかどうかは疑わしくなる。要するに自己の同一性というのは、おおむね、
  1. 過去の体験の記憶
  2. 対人的、社会的な実用性
によって規定される。その証拠に、過去の記憶をすべて喪失してしまえば、少なくとも本人からみれば「別人に生まれ変わった」ということはできる。いろいろな小説や映画で描かれているように、見知らぬ土地で事故に遭って記憶喪失してしまえば全くの別人になることができる。しかし、そういう特殊な事態にならない限りは、2.のプレッシャーによって、現実社会の人々は同一性が保たれていく。もし、「朝起きたら、妻が別人になっていた」、「昨日お金を貸した相手が別人になってしまった」、「殺人犯が突然善人に変身した」というような事態が起こると、世の中は大混乱してしまう。




 すでに述べたように『人生は活動の束』論は、「人生というのはこういうものだ」というような記述的なレベルの図解に過ぎない。なので、それを描いたからといって、老後の生きがいを増やせるというものでもない。むしろ、右肩上がりの成長神話は捨てて、

●人生が終わる段階では活動の束はしだいに収縮していく。最後はすべての束が消失し死を迎える。

という生物学的な真実を、バタバタ抵抗せずに素直に受け入れなさい、という程度のことしか言うことはできない。それを受け入れた上で、SOC理論に基づいて、活動の束の太さや重なりを調整していけば、年相応の充実感を獲得することができるだろう。

 なお、すでに述べたように、『活動の束』は、言語的に関連づけて、さまざまな「じぶん物語」として構成することもできる。客観的にみればそれらはすべて自己満足の思い込みによる虚構に過ぎないかもしれないが、周囲に迷惑さえかけなければそれもアリではないかと思っている。なので、私は他者が宗教活動を行うこと自体は否定しない。もちろんそれは「周囲に迷惑をかけない」ことが前提であって、家財を売り払ってまで献金をするといったカルト宗教は論外。

 あと、『活動の束』を社会貢献の度合いで評価することには賛成できない。そもそも何が社会貢献で何が非貢献なのかということはそんなに簡単に判別できるものではない。
  1. 利己主義者は非貢献と思われるが、その利己主義者たちの利己的な喜びを満たすためにサービスをすることは社会貢献になるのか?
  2. 『利己主義こそ生きがい』という本を書くことで多くの利己主義者たちに有用な知見を提供するのは社会貢献になるのか?
といったパラドックスもある。また「自分という存在は世の中の役に立っているか?」を突き詰めて考えていくと、「自分が存在しなければそのぶん二酸化炭素排出量が減って地球環境保護に貢献できるはずだ」と考えるようになり、みずから命を絶つことにも繋がりかねない。
 高齢者の中には日々社会貢献に尽力しておられる方もおられるし、そういう人たちが増えればこの社会はもっと住みやすくなるだろうとは思うが、だからといって社会貢献に消極的な人の老後は間違っているということにはならない。ま、資本主義社会の中では、他者に迷惑を(できる限り)かけないという前提のもとでは、何をどのように消費しても、回り回ってそれが誰かの利益として還元されるような仕組みが備わっており、いちいち自分の行いを社会貢献の物差しで測るのは無意味であるように思う。