じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 ウォーキングコース沿いの畑に、菜の花のような黄色い花が咲き、ジャガイモのような芋をつけている野菜があった。ネットで検索してみたが、現時点では不明。



2024年4月16日(火)




【連載】チコちゃんに叱られる! 「緑色じゃないのになぜグリーン車?」

 昨日に続いて、4月12日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。

 本日は、
  1. ささいなことで好きな気持ちが冷めるのはなぜ?
  2. 野球のユニフォームに横じまがないのはなぜ?
  3. 緑色じゃないのになぜグリーン車?
という3つの話題のうち、最後の3.について考察する。

 放送では正解は「1等車に緑の帯が入っていたから」であると説明された。奥原哲志さん(鉄道博物館)&ナレーションによれば、
  1. 『グリーン車』は愛称で正式名称は『特別車両』という。
  2. 昔の車両は1等車、2等車、3等車の3つに分かれていて、等級ごとに内装や運賃が大きく違っていた。
  3. そのうち1等車は展望室があるなど豪華で政府の要人や上流階級の人々が乗る高級車両。
  4. 戦後の民主化で階級社会がなくなり1等車を使う人が激減。そのため1960年に1等車は廃止され、それまでの2等車を新1等車、3等車を新2等車に繰り上げた。
  5. その後、新2等車にも冷房がつけられるなど新1等車とのサービスの差がほぼなくなり、運賃の高かった新1等車の利用が減少。そこで運賃を同じに設定。その代わりに新1等車はリクライニングシートなど設備がいい分を特別料金として取ることになった。このとき新1等車を特別車両、新2等車を普通車両と改め、また一般向けに分かりやすいように特別車両を『グリーン車』という愛称で呼ぶことが1969年に発表された。
  6. 1969年1月21日付けの『交通新聞』には、
    グリーンが安全と快適さを表すイメージに通じるところから選ばれたものであるが、車両設計事務所でデザインされたマークは緑色の四つ葉のクローバーを連想させる図案で、「“幸運”にもめぐりあえます」と旅客担当者は早くも営業宣伝に努めている。
    という記事があった。
  7. 「グリーン」という愛称になった理由としては、他に、新1等車の車体の帯が薄緑色であった点が挙げられる。【じっさい、放送で紹介された写真では、窓の下に緑色の帯が入っていた。この緑色の帯は塗装コストの削減などの理由からしだいになくなったが、今でも緑色でなくてもグリーン車と呼ばれている。
  8. 別の理由として、グリーン車になる前の新1等車の指定席のヘッドカバーが薄緑色だったという点も上げられている。
  9. また、グリーン車の4年前に新設された『みどりの窓口』の「みどり」が関係者の意識にあり、それが『グリーン車』につながったという説も捨てきれない。
  10. このように、「新1等車の車両につけられた帯」、「ヘッドカバー」、「みどりの窓口」、「安全と快適さを表すイメージ」といった、いろんな理由が絡み合って最終的に『グリーン車』になったと考えられる。
 放送ではさらに、奥原さんから個性的なグリーン車が紹介された。
  • 岡山県の『ラ・マル・ド・ボァ』:全席グリーン車で自転車の駐輪スペースがある。
  • 5日間で九州7県を走る『36ぷらす3』も全席グリーン車。障子の窓や和室の個室、梅酒・梅シロップ作り体験サービスがある。
  • 1986年から2002年まであった『ふれあいみちのく』では囲炉裏と畳で旅を楽しめた。
 以上が放送の概要であったが、奥原さん自身が語っておられたように、『グリーン車』に決まった理由は複合的であり、「1等車に緑の帯が入っていたから」というのはそのうちの1つに過ぎないと言えそうだ。

 ここからは私の感想・考察になるが、旧1等車が廃止された1960年と言えば私が小学校2年生の頃であり、鉄道に興味を持つ年頃であった。それ以前の切符には「3等」、1960年以降1969年までの切符には「2等」と書かれており、貧富の格差を実感した。
 上掲の記事にもあるように、1969年までの運賃・料金体系では、1等と2等では運賃自体が異なっていた。いつどこだったか忘れたが、特急列車の2等車両が満員すし詰めになっていた時に立ちっぱなしの乗客が車掌さんに一等車に変更したいと要望していたことがあった。その際、「1等と2等では運賃が異なるので、1等車に変更すると運賃から払い直さなければならない」という話を耳にしたことが今でも記憶に残っている。

 ちなみに私自身がグリーン車を利用したのは、70+α年の人生の中で一度だけ(一往復だけ)ではなかったかと思う。以前、長崎に住んでいた時に、寝台特急もしくは新幹線のグリーン車のいずれかを選べるという割引切符があり、それほど高額ではなかったため、息子と一緒に、2階建て新幹線のグリーン座席に乗ったことがあった。
 最近ではマトリョーシカさんの動画などで、グリーン座席や個室などの紹介動画を楽しむこともあるが、自分自身で乗ったことは一度も無い。それどころか、ジパング倶楽部の割引を受けるため、新幹線は『ひかり』や『さくら』ばかりを利用しており、65歳以降は『のぞみ』に乗車したことさえ一度もない。

 岡山近辺で運行されているという『La Malle de Bois(ラ・マル・ド・ボァ)』については、その存在すら知らなかった。もっとも、車窓の景色を楽しむだけなら、別段、各駅停車や快速に乗っても変わらないように思う【どの路線も一度以上は通ったことがある】。

 あと、放送では説明されていなかったが、『みどりの窓口』の由来については、ウィキペディアでは、
みどりの窓口の発祥は、門司鉄道管理局が全国に先駆けてはじめた国鉄セールスマンによる団体旅行勧誘に始まる。当時、小倉、博多、佐賀、佐世保、後藤寺の各駅に1人ずつ配属されたが、小倉駅の助役で当時41歳の渡辺清が第一号で、現在の「みどりの窓口」の発案者の1人でもある。この模様は1963年12月27日発行のアサヒグラフで取り上げられ、NHKも放送した。
名前の由来は、切符の地紋が常備券は赤や青であるのに対し、この窓口で発券されるものは淡い緑色であることによる。1990年代後半からは緑色に代わり、偽造防止を兼ねて濃い水色の帯と「JR」マークのホログラムを施している。
と記されており、どうやら切符の地紋に由来しているようであった。
 みどりの窓口は、かつては最寄りの津山線・法界院駅にも設置されていて、営業時間帯は限られているもののジパング倶楽部の割引切符を待たずに購入することができて大変重宝していたが、その後、2021年5月に廃止され、岡山駅まで行かないと事前購入ができなくなってしまった。その岡山駅ではいつも長蛇の列ができていて、ひどい時には1時間も待たされることがある。もっとも、JRを利用するのは、関空方面か東京方面への往復に限られているため、ここ数年は、割引の適用を受ける金額と年会費がほぼ同額になってしまっていてジパング倶楽部のメリットを受けられない事態になっている。次の更新期には退会しようかと思っているところでもある。


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 半田山植物園のハーブ園には2本のカイノキがあり、晩秋に美しく紅葉する。カイノキは雌雄異株であるが、今の時期、これらの2本はいずれも大量の雄花をつけていることから雄株であると確認できる。
 なお、岡大の時計台脇にあるカイノキはいずれも雌株となっている。
 雄株と雌株はどちらも子孫を増やすためには必要であるが、紅葉観賞という目的から言えば、雌株は秋にたくさんの実をつけるため鮮やかさにイマイチ欠けるという難点がある。



2024年4月15日(月)




【連載】チコちゃんに叱られる! 「野球のユニフォームに横じまが無い理由」についての胡散臭い説明

 昨日に続いて、4月12日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。

 本日は、
  1. ささいなことで好きな気持ちが冷めるのはなぜ?
  2. 野球のユニフォームに横じまがないのはなぜ?
  3. 緑色じゃないのになぜグリーン車?
という3つの話題のうち、2..について考察する。

 さて、ユニフォームの縞模様の話題は、以前にもチコちゃんで取り上げられたことがあるような気がしたが、過去日記を調べたところ、

2023年6月24日:日本のラグビーのユニフォームにボーダー柄が多いのはなぜ?

というように、ラグビーの縞柄であったことが分かった。でもって、その時に正解とされたのは「慶應義塾大学がタイガーカラーにしたら部員が増えたから」であった。
ラグビーが誕生した1800年代のユニフォームは、イングランドは白、ウェールズは赤、オーストラリアは金色、南アフリカは緑、ニュージーランドは黒というように単色であった。いっぽう日本では1899年に慶應義塾大学の英語講師E.B.クラークが生徒にラグビーを教えたことが始まり。しかし当時のユニフォームはは黒1色で学生に不人気だったと伝えられている。1903年に黒と黄色のボーダー柄に変更された。この虎柄のデザインはプリンストン大学のエンブレムが参考にされた。ボーダーに変更すると入部希望者が倍増したという。その後ラグビー部を作った大学がカレッジカラーのボーダー柄を採用し2色のボーダーが広まった。じっさい、早稲田大、明治大、法政大、同志社大などもカレッジカラーに対応したボーダー柄になっている。
とのことであり、少々疑問点が残るものの、どうやらこれが通説になっているようだ。では、野球のユニフォームの場合はどうだろうか?

 放送では、野球のユニフォームに横じまがないのは「囚人のイメージが強かったから」が正解であると説明された。服飾史研究家の辻元よしふみさん&ナレーションによれば、
  1. 日本のプロ野球は12球団あるが横じまユニフォームはひとつもない。メジャーリーグでも縦じまはあるが横じまはない。
  2. 野球に初めてユニフォームが登場したのは19世紀のアメリカ・ニューヨーク。それまでの野球にはユニフォームの概念はなく私服でやっていた。
  3. 初めて統一のユニフォームを導入したのが野球の基礎ルールを作った現代野球の父であるアレクサンダー・カートライト。世界で初めて導入されたのがニューヨーク・ニッカボッカーズの青のズボンに白いシャツというユニフォームであった。彼らは麦わら帽子も被ってプレーしていた。ニッカボッカーズは地元の消防団員で結成された野球チームだった。ズボンは普段使っていた消防士の制服を参考にしたデザインだといわれている。普段からお揃いの制服を着ていたことから野球チームもおそろいにしたという。
  4. 1888年には当時の紳士服のトレンドだった縦じまを初めて取り入れたユニフォームが登場。
  5. 1915年にはニューヨーク・ヤンキースが縦じまを採用。
  6. アメリカでは、そのいっぽう、1980年ごろまで横じまの囚人服が使われていて横じまには囚人のイメージが強かったためユニフォームには採用されなかった。囚人服が横じまなのは脱走したときに目立つという見た目の理由がある。
  7. もう1つ、中世ヨーロッパの時代から横じまは不吉なものとされていた、という大事な理由がある。旧約聖書『レビ記19章』の中に「二種の糸の交ぜ織りの衣服を身に着けてはならない」という記述があり、しま模様を着ているだけで悪魔や魔女と疑われ処刑される人もいた。その結果しま模様の服は犯罪者・死刑囚などが着る洋服と定着した。
  8. 当初は縦じまも横じまも嫌われていたが縦じまは1789年のフランス革命をきっかけに評価が変わった。中心にいたのが革命家のマクシミリアン・ロベスピエール。縦じまのコートを着て市民を率いて革命を成功させた。さらに革命後、青・白・赤の縦じまのフランス国旗になり自由の象徴として親しまれた。フランス革命成功のおかげで縦じまの評価が急上昇したが、横じまは囚人服などに使われ続け悪いイメージのままであった。
  9. このほか、某プロ野球関係者の話によれば、プロ野球球団関係者によると「横じまユニフォームだとピッチャーが投げるときストライクゾーンがわかりやすなりピッチャーに非常に有利になる」とのこと。番組で社会人野球チームの協力を得てその可能性を検証してもらったが、ストライクの取りやすさについては、横じまのユニフォームのほうが少ない投球で三振がとれたという結果にはなったが、これはあまりにもサンプルが少なく、都合のいいように数値を出しているだけで実証できていないように思われた。但し、審判からはも横じまは目安があるので高さの判定がしやすいという声があり、ベイスターズの山崎投手からも、横にラインがひいてあるとストライクのイメージがつけられ、ストライクが取りやすい、四球は減るのではないかというような話があった。


 ここからは私の感想・考察になるが、上に挙げられた6.までの説明はほぼ納得できるものであったが、7.と8.についてはかなり胡散臭いところがある。
 もし、横じまが不吉ということが定着していたのであれば、服の模様ばかりでなく、国旗の模様でも横じまが避けられるはずだが、アメリカ合衆国の国旗をはじめ、ヨーロッパ諸国の中でも横縞のデザインになっている国旗はたくさんある(ギリシャ、オーストリア、オランダ、ルクセンブルク、ハンガリーなど)。野球にはあまり関係の無さそうなフランス国旗だけを取り上げて縦じまのイメージが急上昇したというのはこじつけであるように思われる。

 次に、外国で横縞のユニフォームに悪いイメージがあったとしても、文化の異なる日本でそれに従うべき理由はどこにもない。じっさい、ラグビーのユニフォームの縞柄は日本で独自にデザインされ好感を得たということなので、なぜ日本国内の野球のユニフォームに横縞が避けられたのかということを、外国の囚人服や旧約聖書の記述だけで説明するのは無理があるように思う。

 上掲の引用の中で説得力がありそうなのは、最後の9.である。実は私も、最初に浮かんだ答えは「横じまのユニフォームでは、ピッチャーの投球の高低のコントロールの手がかりになりやすいから」ということであった。実証されたわけではないが、そのようなデメリットが完全に否定されない限り、わざわざお金をかけて横じまユニフォームに変更する球団はまずあるまいと思う。

 次回に続く。