じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 一昨日昨日の日記に、市道の横断歩道の白線がかすれている写真を掲載した。その際に、ウォーキングコース沿いの道路標識についてもチェックしてみたところ、
  1. 『駐車禁止』の下に『2輪を除く』という補助標識がつけられたもの
  2. 『右折禁止』や『左折禁止』の下に『自転車を除く』という補助標識がつけられたもの
がやたら多いことに気づいた。
 ネットで検索したところこちらに詳しい解説があり「補助標識の内容は、各都道府県公安委員会が決定している。場合によっては市区町村単位でも傾向が異なることがある。」とのことであった。
 それによれば、駐禁に関しては、岡山は「 制限なし【幹線道路】、2輪を除く【生活道路等】」(幹線道路ではすべて駐禁だが、生活道路等では2輪に限り駐禁可)となっているようだが、ずいぶんと税金の無駄遣いをしているように思う。
 そもそも駐禁の標識を設置すること自体が税金のムダだし景観を損ねていると思うが(公道は原則すべて駐禁としておいて、駐車が認められる条件を道路交通法に列挙しておけばよい)、それはそれとしてわざわざ「2輪を除く」という補助標識をつける意味はないと思う。じっさいウォーキングコース沿いの生活道路に駐められているバイクや自転車は1台もない。中には県道との交差点角の駐禁標識にも「2輪を除く」という補助標識があったが【写真右】、あんなところに2輪を駐めたら交通妨害になるし、そもそも「交差点内とその5m付近は駐停車禁止」なので2輪を駐められるわけがない。
 もう1つ、『右折禁止』や『左折禁止』の標識に『自転車を除く』という補助標識がつけられているケースだが、そもそも一方通行路であっても自転車は「逆走」が認められているのが普通であり、何らかの事情で自転車を含めて一方通行になっている場合(進行方向が指定されたサイクリングコースなど)はそのむねの標識『一方通行+自転車』を設置すれば済むはずだ。



2024年6月11日(火)




【連載】チコちゃんに叱られる! 「『学ラン』の由来と制服の是非」

 昨日に続いて、6月7日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。本日は、
  1. 横断歩道を渡るときに鳥の声が聞こえるのはなぜ?
  2. 韻を踏むと気持ちいいのはなぜ?
  3. 学ランの「ラン」ってなに?
という3つの話題のうち最後の3.について考察する。

 さて『学ラン』の話題であるが、私自身はこの言葉は聞いたことがあるものの、を一度も使ったことがない。辞書で調べると、
  • 【大辞泉】詰め襟の学生服の俗称。特に応援団などの着る丈の長い上着、だぶだぶのズボンの学生服をいう。
    [補説]一説に、江戸時代に洋服を「蘭服」と呼び、学生が着る蘭服の意からという。
  • 【三省堂国語辞典】(名)〔ラン《←オランダ》=江戸(エド)時代のオランダ人の服装から、洋服〕
    〔俗〕@つめえりの学生服。Aたけの長い上着、だぶだぶなズボンの学生服。
などと記されており、すでに正解まで記されていた。放送では、応援団の服というより、男子の学生服一般についての由来が説明された。

 服飾史研究家の辻元よしふみさん&ナレーションによる解説は以下の通り【要約・改変あり】。
  1. 学ランの「ラン」は。オランダの「ラン」。
  2. 学ランの原型は江戸時代にオランダから伝わった軍服。
  3. 江戸時代、鎖国をしていた日本が正式に貿易をしていたのはオランダだけであり、そのため軍服に限らずオランダから伝わった洋服は全て蘭服と呼ばれていた。
  4. 明治時代、オランダの軍服をモデルにして、帝国大学学生用の蘭服が誕生。学生用の蘭服を略して学ランと呼んだ。
  5. 日本初の国立大学でエリートというイメージから、これまでの和服ではなく、西洋の軍服をモデルにした学ランが採用された。
  6. 大正時代初期には学ランは全国の学校へ広がり、「長ラン」や「短ラン」も登場した。
  7. 軍服が登場したのは17世紀のスウェーデン、当時は黄色で派手だった。同時期のイギリスの軍服は赤、フランスは明るい青。17世紀の砲弾は煙が多かったため、戦場で味方がどこにいるのか分からなくなるため、目立つ軍服を着用していた。
  8. 軍服の色を決めるもう1つの理由は染料。軍服は一度に大量の服を染めるため、安価で入手しやすい染料の色になることが多かった。
    • 17世紀のイギリスの軍服が赤かったのは、当時、赤色の染料の原料であったカイガラムシがイギリスでよく採れたから。
    • 18世紀になると、イギリスの海軍が紺の軍服を採用。当時、イギリスがインドを支配し、インドでは紺色のインディゴ染料が入手しやすかったため。この頃になると鉄砲の精度も上がり、火薬の煙が少なくなったため、敵に見つかりにくい紺色になったという理由もある。
    • 18世紀後半から19世紀にかけてイギリスで起こった産業革命によりイギリス海軍で石炭を使う蒸気船が登場。石炭を扱う兵士たちの軍服は汚れが目立たない黒へと変わった。その影響でアメリカ海軍の軍服も紺から黒に変更。
    • 幕末、長崎県のグラバー邸で知られるイギリス人の商人トーマス・グラバーが黒の軍服生地を輸入。その後、新政府軍の薩摩藩や長州藩も黒い軍服を採用した。その後、白色(アメリカ海軍の夏服)やカーキ色(イタリア陸軍)の軍服も登場した。
  9. つまり、日本に軍服が伝わる時期が早かったり、イギリスの産業革命がなかったりということがあれば、学ランは黒ではなく、赤青黄といった派手な色になっていたかもしれない。
 ということで、「学ラン」という呼称がオランダの蘭服に由来していること、また詰め襟で黒色になった理由は、当時の軍服(イギリス→日本の新政府軍)をモデルに作られたためであるということが理解できた。

 もっとも、このWeb日記で何度も指摘しているように、由来がああだこうだというだけでは、今の世の中でもなぜ続いているのかを説明したことにはならない。今回の学ランに関しては、

●制服はなぜ今でもあるのか。男子の制服はなぜ今でも黒色・詰め襟が多いのか?

という観点から考察する必要があるだろう。

 学生服の歴史についてはウィキペディアに詳しく解説されていた。
【『学ラン』という呼称は】隠語として生き続けた後、昭和50年代に漫画で「ガクラン」と称したことによって再び世間に広まり一般的な呼称となっているという。1980年代前半頃、「ガクラン」は長ランなどの変形学生服を指す限定的な用語として使用することもあったが、現在は詰襟の学生服全般を指す。
また、同じくウィキペディアによれば、全国での詰襟学生服の採用率は2000年代中盤で高校で約2割、中学校で約7割とのデータがある。また、2022年時点で20代の男性が中学生のときに着ていた制服の約6割が詰襟、約3割がブレザーとなっているデータもあるという。

 中学や高校で制服を指定すべきか否かについては賛否両論があるが、私はどちらとも言えない派である。制服を義務化することで日々の服装選びに迷うことはないし、また登下校時に寄り道をしにくくなるというメリットがある。もっとも、私の場合、高校の時は詰め襟で窮屈でたまらなかったことはあった。もっと動きやすい服装にしたほうがよいとは思う。また、今回は全く言及されていなかったが、女子の制服についてもスカート限定ではなくズボンも認めるといった対応が必要かと思う。ちなみに海外では、ボリビアネパールモロッコでズボンの制服を着用している女子生徒を見かけたことがあった。