【連載】チコちゃんに叱られる! 「敬老の日」「左手生活で脳を活性化はBPO提訴案件か」「伊豆大島共和国」
昨日に続いて、9月13日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。本日は、
- なんでパン屋さんで トングをカチカチさせてしまう?
- 敬老の日はもともとなんなの?
- ZAZY天才家計画 1か月左手生活で脳を活性化!
- なんで伊豆半島は静岡県なのに 伊豆諸島は東京都なの?
という4つの話題のうち残りの2.〜4.について考察する。
まず2.の敬老の日については、放送では、「兵庫県のとしよりの日」が正解であると説明された【以下、要約・改変あり】。
- 敬老の日のもとになったのは、兵庫県の旧・野間谷村、今の多可町で「としよりの日」が制定されたのが始まり。
- 野間谷村の村長だった門脇政夫さんは1947年9月15日、55歳以上の人を招待して第1回の敬老会を開催した。
- 9月15日という日付は、『養老の滝』伝説で滝の水を飲んで病気が治った日が9月15日だったこと、また村の農業が収穫を終える時期であったことによる。
- こうして制定された「としよりの日」は門脇政夫さんらの普及活動により、市町村に次々と広まった。
- 1950年、兵庫県も「としよりの日」を祝日として制定。全国各地にも「としよりの日」の意義を説いて回った結果、1966年、9月15日が「敬老の日」と呼ばれる国民の休日と定められた。
- 門脇政夫さんはお年寄りだけではなく若者とのつながりも大切にしてきた。いまもこの思いは受け継がれ、多可町では3〜80歳までのダンスグループや、お年寄りのための歌もある。
ここからは私の感想・考察になるが、まず9月15日という日付の由来であるが、ウィキペディアによれば、これは旧暦であり、ユリウス暦に換算すると10月28日、第4木曜日になるという。じっさい今の9月15日はまだ稲刈り前の地域が多く、しかも地球温暖化のせいか、残暑が厳しすぎる。この問題点は9月15日から「9月の第3月曜日」に変更されても変わらない。
ちなみに、敬老の日には岡山市では、
- 記念品の贈呈:
満100歳を迎えられた方等に、祝状と記念品を贈呈し、ご長寿をお祝いしています。
- 敬老会:
高齢者の長寿を祝福して、敬老会を開催しています。
対象となる方 12月31日現在で数え年80歳以上の方
式典と演芸(各地区・学区でも開催しています。)
という行事が予定されているようだが、満100歳は私には到底無理。80歳以上対象の式典・演芸というのも全く興味が無い。町内会経由で弁当が配られるという話も聞いたことがあるが、この暑い時期に食中毒にでもなったらたまらない。岡山産のフルーツ詰め合わせでも貰ったほうがありがたい。
次の3.の「ZAZY天才家計画 1か月左手生活で脳を活性化!」は「ZAZYという芸人さんが、左手で生活し脳を活性化させて天才になり、もっと面白くなることを目指してスタートした企画」ということで、今回は1日目の進捗状況報告であり、左手でオムライスを作る様子が紹介された。
娯楽番組としては面白い内容であったが、9月8日に指摘したように、この話題は取り上げ方によっては公共放送としてのNHKの姿勢にかかわる重大な問題を含んでいる。そもそもたった1人の芸人さんの体験だけから「左手で生活し脳を活性化させて天才になれる」などという結論を出すことはあり得ないとは思うが、いずれにせよ、「右脳を鍛えて天才になる」というような偏った主張を無批判に垂れ流したり、解説者の著書やビジネスの宣伝に間接的に手を貸すようなことになれば大問題。私も当然、BPOに提訴することになるだろう。
最後の4.の「なんで伊豆半島は静岡県なのに 伊豆諸島は東京都なの?」については、正解は「島の人たちが東京とのつながりを望んだから」であると説明された。
伊豆諸島の歴史について10年以上研究している榎澤幸広さん(名古屋学院大学)&ナレーションによる解説は以下の通り【要約・改変あり】。
- 伊豆諸島は最北端の伊豆大島から南に約600km。9つの有人島と、多くの無人島、岩礁など116の島々が連なって出来ている。
- 伊豆諸島は江戸時代、魚や塩を年貢として納めたり、塩や八丈絹などを江戸まで運んで生計を立てていた。もともと幕府の直轄地だったので東京とのつながりが歴史的にも深かった。
- 明治時代になって伊豆諸島は静岡県の所属になった(当初は相模と伊豆国を合わせた『足柄県』、5年後に足柄県、静岡県、濱松県などを合わせた『静岡県』)。しかし江戸時代からのつながりで伊豆諸島からの人の行き来は東京ばかり。船もほとんど東京行きだった。静岡県になることで行政上の手続きはまず、船で東京に行き陸路で静岡まで行っていた可能性が高いという。静岡県の職員も同じだった。
- そんな状況を知り、地域行政を指揮していた内務卿・大久保利通は、太政大臣・三条実美に上申書を送り、その結果、伊豆諸島が静岡県になってから2年後の1878年、東京府に移管されることになった。
- 太平洋戦争後、伊豆諸島は日本からの独立するを可能性があった。ポツダム宣言第八項では「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国、吾等の決定する諸小島に限る」と記されており、これを根拠にGHQは1946年1月29日、伊豆諸島を日本から行政分離すると発令した。これを受けて『伊豆大島共和国』が伊豆大島の住民たちによって検討された。伊豆諸島は独立国を目指した。会議の中心となったのが村長の柳瀬善之助さんだった。1946年、3月上旬、大島暫定憲法が完成した。その憲法には大島の統治権は島民にありと記されていた。
- 一方、東京では東京都の渉外部長の磯村英一が伊豆諸島を日本に戻そうと奔走していた。磯村は、親しくしていたアメリカ軍の東京都担当中佐を密かに伊豆大島に連れて行った。QHQが日本からの行政分離を決定した理由の1つとして伊豆大島には軍事施設があるという疑いがあったが、磯村は伊豆大島は脅威にならないこと、また行政分離すると島の人たちの生活が成り立たなくなることを説明し分離撤回の交渉を続けた。こうして1946年3月22日、GHQは伊豆諸島を日本に復帰させると指令。こうして伊豆諸島は行政分離から53日後に日本に復帰した。
ということで、伊豆諸島がいったん静岡県の管轄になったこと、戦後の『伊豆大島共和国』の経緯がよく理解できた。なおウィキペディアによれば、
大誓言についての情報は若干の記録と風聞にとどまっていたが、1997年、大島の文化財保護委員であった藤井伸が町立郷土資料館の文献を整理する中で憲法の原文とその草案、制定過程を示したメモなどを発見し、再び日の目を見るに至った。同年1月7日に朝日新聞がこれをスクープとして一面記事に取り上げている[27]。
2014年、大島大誓言の原本とその制定過程を示すメモが所在不明になっていることが報道されている。取材に対し、町の教育委員会は史料整理とともに捜索に当たると回答している。
戦後の独立運動としては琉球独立運動があることは知っていたが、伊豆諸島に関して独立国としての憲法草案まで検討されたということは全く知らなかった。もっとも琉球と異なり、伊豆諸島のほうは別段独立運動が起こっていたわけではなく、GHQなどの政治的判断だけで決められていたようであった。なお沖縄県民対象の調査によれば、沖縄独立に賛同する比率は2005年には24.9%、2007年には20.6%となっており、少数派となっている。とはいえ、その後も一定比率で独立賛成の意見があるというのは少々意外であった。
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