じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
※クリックで全体表示。 ![]() |
2月18日の岡山は午後になって数回にわたり雪雲が押し寄せ、激しく雪が舞った時間帯があった。もっとも、気象庁の記録上の降水量は0.0ミリであった。 写真は日没前の西の空。次の雪雲がこちらに向かっているところ。 |
【連載】最近視聴したYouTube動画(6)岡田斗司夫さんの動画をもとに宗教について考察する(3)「前世」はあるか? 昨日に続いて、最近視聴したYouTube動画の感想・考察。本日より、以下の動画について配信順に感想を述べさせていただく【随時追加あり】。なお2月14日にも述べたように、私は岡田斗司夫さんがどういう方なのかは殆ど存じ上げていない。なので、この連載で岡田さんの物の見方について意見を申し上げるような立場にはない。あくまで、岡田さんが動画の中で発せられたいくつかのポイントをネタとして「岡田さんは○○と言っておられたが私はこう考える」というように、岡田さんの言葉をお借りして私の考えの語彙を拡張することが目的である。
ということで、まず、10年前に配信された以下の動画から取り上げさせていただく。 ●【10年前】前世が無いと報われない!?そんなこの世の考え方!! この動画ではまず当時39歳の女性(漫画家)からのお便りが紹介されていた。その女性の論点は、以下のようなものであった【要約・改変あり】。
●【前世は存在し得るのか】岡田斗司夫の死生観と輪廻転生論について【岡田斗司夫切り抜き/切り取り/スピリチュアル】 にも収録されているが、これについては一部、次回以降に言及させていただく。 ここでいったん私の感想・考察を述べさせていただくが、まずウィキペディアによれば、前世は以下のように説明されている。
生まれ変わりという考えはチベット仏教では強く信じられており、以前NHKの番組で『リンポチェ』と呼ばれる『輪廻(りんね)の少年』という放送を視たことがあった。それを信じる人たちにはそれなりの充実したライフスタイルがあり、私自身は別段否定も肯定もしないし議論するつもりもない。 前世や輪廻転生については私自身はこれっぽちも信じていない。 その理由の1つはまさに岡田斗司夫さんが指摘されておられたように、人口の変化にある。大昔に比べれば現代の人口は爆発的に増えており、現代人1人1人に対応させようとしても「前世」が足りなくなってしまう。また少子化が進む今の日本では、逆に次に生まれ変わろうとしても「魂」を入れる器のほうが足りなくなって生まれ変われないことになりそう。 もっとも上記の理屈はあまり本質的ではない。岡田さんが論じておられたように、一番の論点は、現代社会の不公平をどう受け止めるのかという姿勢にある。私が理解している限りでは「前世」という考えは、もともと貴族たちが自らの地位を保持したり、低い身分の人たちの反抗を抑えるために利用されてきた。現代社会の不平等の説明に「前世」を持ち込むと、格差社会は固定されてしまう。それよりも世界人権宣言の精神にのっとり、 ●すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。 人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。 という方向で社会制度の改革、平和の維持につとめる必要があるのではないかと思う。 岡田さんの「レリゴー」という考えが、個人レベルでの運・不運のみに適用されるのか、それとも世界のどこかで戦争があっても人種差別や迫害があってもすべて「レリゴー」なのかは、今回の動画だけからは判断できない。私自身は、あくまで個人レベルに限定すべきだと思っている。 なお、人類を含めて地球上の生物がすべて遺伝子情報を受け継ぎながら代を重ねているという意味では、遺伝子レベルでの生まれ変わりはあると考えることはできる。また今の自分の肉体を構成しているすべての分子は、大昔から地球に存在していた分子のリユースに過ぎない。 もっとも、遺伝子レベルでは過去の体験までは引き継がれることはない。『チコちゃんに叱られる!』にたまに登場する「遺伝子に記憶されているから」というような進化生物学モドキは大概はインチキなこじつけに過ぎない。 要するに、人が生きていくために基本となるような行動傾向、例えば食物を口にする、水を飲む、有害事象から逃れる、...といった傾向は次の世代に受け継がれる。その意味では、子どもは親と同じ行動傾向を持つという部分に限って代々生まれ変わっていると言ってもよいだろう。 しかし、ご先祖さまの誰かと全く同じ顔であったとしても、好みがそっくりであったとしても、「じぶん」の同一性が継承されるレベルには至らない。いずれにせよ、私が誰かの生まれ変わりだったとしても、前世の情報が何1つ受け継がれていない【その情報を利用できない】のであれば、同一性を主張する意味は無い。 このWeb日記で何度も指摘しているように、そもそも何かと何かが「同じ」かどうかは絶対的なものではない。私がよく挙げる例として「十円玉の同一性」がある。例えば自動販売機で十円玉を使う時には財布の中にある十円玉はどれも「同じ」と見なされる。いっぽうコインの収集家にとっては、特定の発行年の十円玉はそれ以外の十円玉と違って特別の価値を有するものと見なされる。昨日の自分と今日の自分が同じかどうかも同様であり、「同じ」と見なすことのほうが有用であるからそのように扱っているだけのことだ。【朝起きた時に妻が別人になっていたらエライことだし、会社や学校でも毎日「同じ人」が来なければ大混乱になる。殺人犯がいくら反省して別人になったとしても、社会的には許容されない。】 「前世の自分」と「今の自分」が同じかどうかという議論も、何をもって「同じ」と見なすかに関わってくる。分子のリユースという点では生まれ変わりはあるかもしれないが、何百年の前に死んだ人と今の自分に同一性を見出そうとしても何のメリットも生じない。 次回に続く。 |