じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
夕焼けは普通西の空に見えるものだが、今日の夕刻は北側の空(半田山方面)だけが赤く染まるという面白い現象が見られた。今年の夏は太平洋高気圧の張り出しが今ひとつであり、南海上で発生する台風の影響を受けやすく、九州や四国、東海方面には高気圧の縁に沿って次々と湿った空気が送り込まれている。この夜も夕焼けのあと俄雨が降った。 |
【思ったこと】 990805(木)[心理]大学公開説明会その後/「カウンセラー養成」よりも「カウンセラーに頼らない環境づくり」をめざすという意味 5日の朝10時から、予定通り文学部の公開説明会が行われた。事前の情報どおり、会場には約400人の受験生や引率の先生、ご父兄にお集まりいただき、立ち席も出るほどの盛況であった。 私の話の内容は、ほぼ昨日の日記の通り。以下、昨日の日記(緑色の引用部分)の一部について実際に話したことを補足。 このうち実証的というのは、ただ単に「みんなが納得した」「誰も反対しなかった」という合意や了解にとどまるものではなく、予測や制御の可能性を真理基準にするということを含んでいる。そこで、これを分かりやすく説明するために、簡単な手品をやってみよう[ここで、「読心術」の手品を披露する]。手品というのは、参加者の一人に「1」、「2」、「3」という3枚のカードから好きなものを1枚を選び、選んだカードを高く掲げてもらう。今回は「3」が選ばれた。次に、近くに座っている人に私のポケットに入っている1枚のカードを取り出してもらう。するとそのカードには「3」という数字が書かれている。つまり私は、最初から「3」が選ばれることを知っていたという手品である。 この手品のネタは昔からよく知れ渡っている。今回は「3」が選ばれたので、もう一人には右側のズボンのポケットに入れてあったカードを取り出してもらったが、もし「1」が選ばれればカッターシャツのポケットに入れてあった「1」を、またもし「2」が選ばれれば、ズボンの左側のポケットに入れてあった「2」を選んでもらう仕掛けになっていた。この「手品」を通して伝えたかったことは、行動現象を説明する場合に、現象が起こってしまってからでは「ほら、このとおりに起こることは最初から分かっていたんだよ」とどのようにでもコジツケの説明ができるということ。犯罪事件でも犯人が逮捕される前には全く見当外れの犯人像を予想していたような推理小説作家や犯罪心理学者が、犯人が捕まったとたんに、その犯人の実像に合わせてあたかも逮捕前からそれを予想していたようなまことしやかな説明を展開することがありうるという話だ。 行動科学を研究するためには、1つの現象について安易な説明を求めず、さまざまな角度から多面的に原因を探る目を養うことも必要である。たとえば以下の問題について考えてみよう[以下は時間の関係により一部省略]時間が無かったので1.だけ取り上げた。これは『クリティカルシンキング入門編』(ゼックミスタ・ジョンソン著、宮元ほか訳、北大路書房、ISBN4-7628-2061-X)にヒントを得た話であり、通常は、「誰かがハンマーで叩いたこと」がガラスが壊れた原因であると考えられる。しかし、ガラスの強度を検査する場面で、10箇所の工場のうちの特定工場で製造したガラスだけが壊れたとすれば、その工場の製造工程に欠陥があることが壊れた原因であるということになる。要するに、物事の原因というのはそんなに単一の原因だけで説明できるものではない。多面的な角度から原因を探究する必要がある。また、研究のニーズ(要請)によって、原因の捉え方も変わってくるという話だ。 上記のうち残りの2つについては省略してしまったので、ここで追記させていただく。
初めからそれだけをめざして入学してこられる方に配慮した教育は行っていない。むしろ、「カウンセラーの助けを借りずに充実した生活を実現するには自分の行動や周囲の環境をどう整えたらよいのか」を幅広く追究したいと考えている方がたくさん入学されることを希望している。このことについては説明会終了後にも数人の方から「教育学部の心理学とどう違うのか」、「文学部の心理学を卒業したらどういう資格がとれるのか」といった質問をいただいた。教育学部の心理学にもいろいろあるので一概に断定はできないけれど、あくまで私見として、全国の心理学関連の履修コースをこの問題だけに限って分類すれば:
心理学関連の資格については7/26の日記(7/27の日記に追記あり)でもふれた。個々人が修養するための具体性のある達成目標としての資格設置は大いに結構だと思うけれど、資格がある人だけに特権を与えて特定の行為を認めるというのは、臨床心理の分野ではあまりふさわしくないように思う。個々人の悩み事のような問題は、ほんらい自分自身のマネジメントと家族や職場などそれをとりまく構成員全体の努力によって解決されていくものであり、カウンセラーさえ増やせば不登校もいじめも学級崩壊もすべて解決するなどと思うのは大間違い。そういう意味では、たとえば100人が住む1つの社会があったとすると、そこで専門職としての1人のカウンセラーの養成にエネルギーを注ぐよりは、そこに生活している100人全員に対して個人レベルでのパフォーマンスマネジメントを普及させ、またそれを実現させるような環境づくりを目指すことのほうがはるかに効果が大きいようにも思う(単に個人レベルの悩み解決でなく、学校や職場環境の改善に積極的に関与しているカウンセラーが居られることは承知しているが...)。 もちろん、そうは言っても、どんな理想環境のもとでもカウンセリングを必要とする人々は必ず存在する。その場合、一切資格を定めず誰でも自由に「心理士」とか「心理療法士」を名乗れるようにしてしまうと、暴利をむさぼる悪徳カウンセラーが現れたり、果ては霊感商法、マインドコントロールの被害者が急増する恐れもある。7/26の日記にも書いたように、そういう点では、きわめて基礎的な要件を満たすレベルでの心理学の公的資格はやはり必要。しかし、そこから先の実践活動については、有資格者に特権を与えるのではなく、さまざまな流派との比較を含めた客観的な外部評価や競争原理の淘汰のプロセスを通じて、結果的に有効な方法だけが生き残り発展していくような環境を残しておく必要があると私は考える。 |
【ちょっと思ったこと】
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【新しく知ったこと】
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【生活記録】
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【今日の畑仕事】
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。)】
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