じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真] 旧・岡大事務局棟[旧日本軍第17師団(大正14年廃止)司令部・歩兵第33旅団司令部]にかかる月齢12.6の月(6月19日撮影)。夏至が近いため、南の空の低いところに輝いている。

 ちなみに、今年は夏至の翌日の22日が満月(13時14分)であり、かつ月の赤緯が最南(17時2分)となる。昨年は6月18日が新月、6月19日に赤緯が最北となったため、今年とは正反対であった。今年のように、夏至と満月が1日違いというのは結構珍しい。

 満月が夏至の日に近いということは、それだけ低い空で満月を眺められることを意味する。その分、同じ視野の中に低い建造物と月を入れやすくなる。このほか、南の窓から差し込む明るい月の光を楽しむこともできる。もちろん、晴れることが前提ではあるが。


6月20日(月)

【ちょっと思ったこと】

やっぱり、まだ梅雨入りしていない疑惑

 6月13日の日記で、「まだ梅雨入りしていない疑惑」について書いたが、少なくとも岡山県南部地区に限っては、私の考えは正しかったようだ。

 気象庁のデータによれば、岡山市の6月に入ってから20日までの総雨量は19ミリ。このうち16.5ミリ分は6月11日に降った雨であって、あとはお湿り程度。最高気温のほうも6月17日から20日まで連続して30度を超えているが、熱帯夜にはなっていない。梅雨前線の北側の高気圧に覆われているためだ。同じ西日本でも、同期間の大阪の総雨量は46.5ミリ、神戸は64.5ミリ、京都は40ミリとなっており、瀬戸内地方がいかに少ないかが分かる。

 幸い、岡山市の場合は、旭川水系の豊かな水に恵まれているため、農作業への影響は少ない模様だが、公園の花壇や家庭菜園などでは水やりが大変だ。蛙の鳴き声もイマイチ張りがない。

 四国の水瓶の1つである早明浦ダムでは6月20日の22時現在で貯水率が48.5%まで減少。1994年の大渇水時より1週間早いペースで減り続けているという。

 素人目で見る限り、今年は梅雨前線そのものはしっかりしており、前線がかかった場合には記録的な大雨となっている地域もある(これまでのところでは沖縄方面)。この前線が順調に北上するか、それとも、北上する前に消滅してしまうか、予断を許さないように思う。

【思ったこと】
_50620(月)[心理]人と植物の関係を考える(9)森林の療法的効果

 各種報道によれば、森林浴による癒やし効果を医療や健康づくりにいかす「森林セラピー(療法)基地」の候補29地区が17日、東京都内に集まり、全国ネットワーク会議を設立した。

 いっぽう、ネットで検索したところ、森林セラピー研究会というサイトに「森林セラピー」国際シンポジウム −国際社会における森林セラピーへの期待と今後−が6月18〜19日に明治神宮参集殿で開催された。森林との関わりを科学的に検討し、積極的に活用をはかろうという動きが活発化していくものと思われる。

 ちなみに、この「森林セラピー」というのは商標登録されており()、森林セラピーポータルというサイトに分かりやすい解説や、上記のシンポの情報も掲載されている。
] (※) 「森林セラピー」は 社団法人国土緑化推進機構 社団法人全国林業改良普及協会 社団法人全国森林レクリエーション協会 財団法人日本緑化センター の日本国における登録商標です。

 さて、この「森林セラピー」であるが、ポータルサイトにある
森の自然が彩なす風景や香り、音色や肌触りなど、森のいのちや力を感ずることによって、私たちの心身に元気を取り戻させようとするものです。
という趣旨には大いに賛同したい。私自身はこれに関する研究を行っているわけではないが、今年の5月中旬以降にも、岡山県・森林公園岡山市・自然保護センター鳥海山麓大山というように、4回も「森林」に出かけている。その効用は十分に実感できる。

 しかし、問題となるのは、
 しかし、森林の快適性増進効果や療法効果については、医学的な解明が現状では不十分であり、客観的かつ科学的な分析(エビデンス)に基づく効能の評価と療法メニューの確立が求められています。
という部分だろう。科学的な分析が必要であることは認めるが、実験や、短期間の調査で検証できる効果というのは原理的にきわめて限られている(6月12日の日記参照)。条件の異なる集団間の平均値に有意な差があった、ということをたくさん示すことで、真の「エビデンス」を満たせるのかどうか、という疑問もないわけではない。

 6月20日朝のNHKおはよう日本では

●森林浴にはストレスを解消する効果があると考えられていますが、実際に行かなくても、森林の写真を見るだけで、人は心地よいと感じ、リラックスすることが最新の脳の研究でわかりました。

という研究成果が紹介されていたが、森林の写真にリラックス効果があるかどうかは、脳の研究をしなければ分からないことなのだろうか。写真を見た人が「これは気持ちがいい」と回答しただけではダメなのか、このあたりは大いに疑問が残るところだ。

 先日の人間・植物関係学会の研究発表を拝聴していても思ったことであるが、「客観的かつ科学的な分析(エビデンス)に基づく効能の評価」というのは、どうにもこうにも唯物論的な発想、というか、実験的方法を万能と考え、何が何でも「生理的・化学的な変化、イコール、エビデンス」という考えに囚われすぎているような気がしてならない。

 ここで突然脱線してみるが、例えば、セクハラは良くないことだという議論に当てはめてみよう。セクハラの被害者が訴え出る時には、果たして「客観的かつ科学的な分析(エビデンス)に基づく被害の評価」が必要であろうか。本人が不快あるいは精神的苦痛であると表明しており、かつ、一般的にセクハラに該当すると認定される発言や状況が証拠づけられればそれで十分。被害者の生理的・化学的な変化を検査する必要はあるまい。

 さらに脱線するが、人をぶん殴ってもよいのかどうかという議論も同様である。殴られた人は「痛い、痛い」、「殴られることは私にとって苦痛だ、不快だ」と言語的に表明するだろう。しかし、その被害者に唾液を用いたストレス検査では陰性、胃カメラを入れても胃潰瘍の痕跡は見あたらない。となると、

●人をぶん殴ることは、相手に苦痛と不快感を与えると言われています。しかし、医学的な解明が現状では不十分であり、客観的かつ科学的な分析(エビデンス)に基づく不快と苦痛の評価の確立が求められています。

と言わざるを得ないのだろうか。

 念のためお断りしておくが、療法的効果について科学的な検証を行うこと自体を悪いと言っているのではない。それはそれである程度は必要なことだが、決して十分条件を満たすものにはなりえない。「森林に接すれば誰でも健康になれます」という「平均値の有意差検出」型の検証ではなく、「個々人が森林と関わる中で、どのような豊かなアクティビティを実現できるのか」という視点で研究にエネルギーをそそぐことのほうが、より建設的であり成果が期待できるように思う。