じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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12月7日、恒例の岡大イルミネーション「光の贈り物が始まった。この日はたまたま一般教育棟構内で17時30分すぎまで会議があり、帰路偶然に点灯式を見物することができた。点灯式の時間帯に限り、ピーチユニオンが完全消灯され(写真左上)、3万個のイルミネーションが際だって見えていた。写真右は、西方向から撮影したもので、月と木星(12月7日の05時14分に5°12′まで接近)が光っていた。写真左下は夕食後の散歩時に撮影したもの。ピーチユニオン館内の明かりもそれほど目障りではない。 ちなみに、岡大構内でのイルミネーションは、岡大生協の利用者還元(余剰金活用)として2006年にマスカットユニオン(北福利施設)の前で小規模に始まった。その後2008年から、学生の実行委員会のもとで、大規模なイベントが行われるようになった。当初はマスカットユニオン前、2008年には南北通りで行われていたが、昨年からピーチユニオン(南福利施設)前に変更されている。「ひろしまドリミネーション」(11月26日と27日の楽天版参照)のような華やかさはないが、学生主体の手作りの良さに魅力がある。主な過去記録は以下の通り。
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【思ったこと】 _b1207(水)日本質的心理学会第8回大会(12)「個性」の質的研究(11)関係の中における個のふるまい(2)エスノメソドロジーの「ルール」と行動分析学の「ルール支配」 昨日の続き。 今回は少々脱線するが、昨日引用したエスノメソドロジーをめぐる議論:
行動分析学から見れば、エスノメソドロジーが言う「ある社会の成員が暗黙のうちにもつ規範としてのルール」は、直接効果的随伴性もしくは「ルール支配行動」の一部として捉えることができるように思う。それは、社会の中に厳然と存在しているわけではなく、「暗黙のうちにもつ」ものでもない。個々人は他者との関わったり、その社会で生活していくために諸々のオペラント行動を自発しているが、それらを強化あるいは弱化している諸々の行動随伴性の一部として、機能していると考えられる。 「ある社会の成員が暗黙のうちにもつ規範としてのルール」なるものは、当初偶発的に生まれた後に定着していった場合もあるし、法律や命令、呼びかけなどによって当初はそれを守るように強化されていった場合もある。しかし、いずれの場合も、行動随伴性であることは間違いなく、かつそれらは、人と人との関わりの中で生まれる相互強化の中で維持されていくものである。 例えば、エスカレーターを利用する時に、東京ほか多くの地域では人々は左側に立ち、大阪エリアでは右側に立つのが一般的であるが、これらは当初、駅構内などの誘導看板のもとでルール化され、その後に、同じ地区の別のエスカレーターにも般化したものと考えられる。もちろん、東京のエスカレーターで右側、あるいは大阪で左側に立ったとしても法律で罰せられるわけではない。しかし、急いで通行しようとする人の妨げになるので(←本来は、エスカレーターの上を歩いてはいけないそうだが)、同じ側に立つということが、利用者どうしによって相互に強化されていく。つまり、あるルールに従って行動することのほうがてんでばらばらに行動するよりもメリットがあるからこそ、その随伴性は維持されていくのである。 いっぽう、法律で定められても、あまり守られないルールというのある。自動車後部座席でのシートベルト着用などは、2008年6月1日から、一部の特殊な例外を除いて同様に義務化されているが、少なくとも一般道路で実際に着用している人はあまり見かけないように思う。岡大西門のスクランブル交差点では、歩行者信号が青になったとき一斉に自転車が横断しているが、あれも、厳密には、自転車から降りて歩いて渡るべきものであるが、殆ど守られていない。 要するに、エスノメソドロジーで言うところの「ルール」、あるいは行動分析学で言うところの「ルール支配」は、暗黙のうちに「持たれる」かどうかではなく、どの程度、個々人の行動を制御できているのかという形で観察されるべきである。そして、それがよく守られるかどうかは、成員の相互の強化がどれだけあるかにかかっているように思う。 なお、昨年秋に刊行された、 ●島宗理『人はなぜ約束の時間に遅れるのか素朴な疑問から考える「行動の原因」』光文社新書、2010年、798円、ISBN978-4-334-03579-2. の第3章の話題:道徳観を視考する〜人は、なぜ公衆マナーを守れなくなったのか〜 では、かつての「江戸しぐさ」の復活の可能性についても論じられており、大いに参考になる。 次回に続く。 |