じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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2011年版・岡山大学構内の紅葉(19)今年の「元祖・落ちない銀杏」と「三代目・落ちない銀杏」

 岡山市では12月16日、平年より2日、昨年より9日早い初雪が観測された。17日早朝は0.2℃まで気温が下がっている。そんななか、岡大七不思議の1つ、「落ちない銀杏」が、周囲の樹の落葉により次第に目立つようになってきた。写真上と中段が「元祖・落ちない銀杏」、写真下段は「三代目・落ちない銀杏」であり、左後方の赤い円内が「元祖・落ちない銀杏」。

 なお、「二代目・落ちない銀杏」の写真は、2009年12月14日の日記にあり。この「二代目」は昨年12月には目立たなくなり、今年の三代目に交代した。北側にある畑の日当たりを良くするためなのか、二代目、三代目のイチョウは毎年強剪定を受けており、葉っぱが落ちないのは人為的な影響によるものと思われる。

12月16日(金)

【思ったこと】
_b1216(金)日本質的心理学会第8回大会(21)内田樹氏の大会記念講演(5)シヴァリンガ型の原発/うめきた大仏

 昨日の続き。

 原発を一神教の神のように崇めるということは、突拍子もない想像の産物のようにも思えたが、インドではシヴァ神の象徴(シヴァリンガ)のかたちで原発を作り、ヨーロッパでは原発施設が神殿風に造られているということであった。この話題もどうやら、

内田樹×中沢新一×平川克美 『大津波と原発』

からの引用であるようだ。但し、シヴァは自然神なので、一神教的な神様とは違うという指摘もある。ま、それはそれとして、人間の度量衡では計れないものに畏怖の念をいだき、もっと恐ろしい、祟り神のような存在として接するべきであるという点では、宗教を持ち込むことは意味のあることかもしれない。

 このあと、内田氏の話は、うめきた大仏の話題に移っていったが、そのご趣旨は、我々の社会生活の土台として、霊的なものをどう位置づけるか、人間的なものと人間的でないものをどう扱っていくのかという点にあったようだ。リンク先の内田氏のブログの関連部分を箇条書きにして引用させていただくと、
  • 人間が暮らす空間には、「霊的な備え」が必須だということである。
  • 霊的な備えをしておかないと、鬼神の類が人間を襲うというような話をしているのではない。人間を襲うのは人間だけである。 人間が住まないエリアには神社仏閣などなくても、何の障りもない。でも、いやしくも人間が住む場所については、「人間の愚鈍さや邪悪さ」ができるだけ物質化しないような「仕掛け」を凝らすことは必須の仕事である。
  • 「存在しないもの」をあたかも「存在するもの」たちのうちに立ち交じって、さまざまな具体的な働きをするものであるかのように「遇する」という義務からは逃れることが許されない。人間が一定数以上住む場所には、必ず霊的なセンターを置き、「存在しないもの」に対する配慮を覚醒させ続けることは、人類学的には抗命を許されない絶対的命令なのである。「存在しないものをして、『存在しないもの』としてそこにあらしめよ」というのが私たちがそこから逃れることのできない人類学的命令である。
  • というわけで、どうです「うめきた大仏」建立案。政治家も官僚もビジネスマンも、真剣に考えてはくれないだろうか。ほんとうにこれで大阪は起死回生的に蘇生する。むろん神威によって蘇生するのではない。大阪に住む人間が大阪を賦活させるのである。人間というのは「霊的に賦活された気になると、毎日機嫌よく働く」のである。
  • レヴィナス老師が言われたように、「人間が人間に対して犯した罪は神といえどもこれを代わって償うことはできない」。同じように、「人間が人間を励まし、癒し、支援する仕事は、神といえどもこれを代行することはできない」のである。その「神といえどもこれを代行することができない」という一行があるからこそ、人間は「やる気」になるのである。人間が「私には人間的責務が負託されている」と感じるためには、超越者を経由することが必要なのである。人間が人間であるためにはどうしたって神霊たちの支援が必要なのである。
というようなことからみて、内田氏は別段、神の存在を主張しているわけでもなく、また、何かの神威や御利益で日本再生、大阪再生を図ろうとしているわけではなさそうだ。大切なことは、超越者を経由して「神といえどもこれを代行することができない」という人間的責務を悟ることにある、と私なりに理解した。

次回に続く。