じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§  2月24日(金)の大学構内は、前期個別学力試験の下見に訪れた受験生たちで賑わっていた。写真は、きわめて地味ながら、やっと花を開いたスノードロップ。昨年の球根の植えっぱなしのため、きわめて貧弱。

2月24日(金)

【思ったこと】
_c0224(金)「質的研究の来し方と未来:ナラティヴを巡って」&「人生心理学:イメージ画と語り」(5)麻生氏の話題提供(4)三人称的視点で語られること

 昨日の続き。

 話題提供の最後のところで麻生氏は、ふたたび、29年前に起こった御自身の息子さんに関する出来事に言及され、そのエピソードの意味として
  1. 生活の中のダブルスタンダードに直面し、その矛盾に苦しく幼児の姿
  2. 自己の存在と張り合う「他者」との出会い(幼児にとって大人は「他者」ではない)
  3. 拒否の新しいスタイルの獲得
を挙げられ、それらはわざわざナラティブ志向と表現するする必要があるのか、これらは日本人にとって普通の議論の仕方であり、日本人の常識ではないかと論じられた。その上で、私たち【日本人】には、神(God)もロゴスもなく、あるのは日常の生活実感と日常のことばであって、西洋の「学問(Science, Wissenshaft)」はしょせん成立せず、成り立つのは「正統的で厳密ではない“学問”」であると主張された。

 以上についての私自身の考えはすでに述べさせていただいたことの繰り返しを含むものであるが、まず、日本人であれ西洋人であれ、1つの言語コミュニティの中での「日常の生活実感と日常のことば」には本質的な差違はなく、西洋人の家庭で同じような出来事があれば、使用される言語は異なっていても、似たり寄ったりの表現で語られることになるのではないかと思う。

 もしそうでなくて、西洋では、すべてが神(God)やロゴスを前提として語られるのであれば、我々日本人は、西洋の小説や詩、子ども番組、アニメ、芝居、ドラマ、映画、...などを理解できないことになってしまう。

 それと、上掲の1.〜3.の「エピソードの意味」であるが、これはあくまで、心理学者としての父親(大人)が、お子さんの置かれた状況や前後の文脈を客観的に観察した上で、三人称的に語られた意味であるように思う。行動分析学では時たま、手続的定義か? 制御変数的定義か?ということが問題になるが(2011年9月30日の日記参照)、ここに挙げられているようなエピソード(←行動観察場面?)の場合でも、観察されたすべての事象が当人の行動に影響を及ぼしていたとは限らないし、また、観察されなかった事象が最大の原因になっていたこともありうる。三人称的視点で語られる限りにおいては、息子さんが拗ねた原因は上掲の1.〜3.であるようにも思えるが、当時1歳10ヶ月11日の子どもにとって、ダブルスタンダードの矛盾が不満をもたらすかどうかは、語られた内容だけからは定かではないように思う。もっと単純に、息子さん御自身の主張が否定されたことへの反発かもしれないし、1歳6ヶ月15日のいとこが自分よりひいきされたことへの不満かもしれない。

 鋭い観察力と表現力にあふれる小説家による記述と比較して、質的心理学者による記述が、どういう点で、誰に対して有益な情報を提供できるのかということについては、私自身にはまだまだ得心のいかないところがある。

次回に続く。