じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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半田山植物園の中腹から眺める岡山県総合グラウンド陸上競技場【3月2日撮影】。サッカー『ファジアーノ岡山』のホームスタジアムとしても知られている。 この競技場の呼称は、ネーミングライツにより「kankoスタジアム」(カンコースタジアム、略称「カンスタ」)、2015年3月1日から2025年1月31日までは株式会社シティライトにより「シティライトスタジアム」(略称「Cスタ」)、さらに2025年2月1日より、JFEスチール株式会社により「JFE晴れの国スタジアム」(略称「JFEス」)というように改称されているが、加齢により物覚えが悪くなってきた私には覚えるだけで一苦労だ。 ちなみに『ファジアーノ岡山』の「ファジアーノ」というのは「ファジー」に由来するのかとずっと思っていたが、この日記を書いていて、実は桃太郎の家来に由来するキジであると初めて知った。そうか、よく見かける鳥のマークは鷹ではなかったのか。 |
【連載】最近視聴したYouTube動画(13)岡田斗司夫さんの動画をもとに宗教について考察する(11)3つの他者、AIが故人を復活させる? 3月3日に続いて、宗教について岡田斗司夫さんの動画をネタにした考察。 昨日の日記では ●人は、生物としての他者ではなく、概念化された他者と接している という私の考えを述べた。この考え、はACTで言われている『3つの自己』(あるいは自己の体験の3つの側面)を他者に拡張したものである。【昨年8月22日の日記およびそれ以降の連載【但し未完】参照】。 『3つの自己』のそれぞれの呼称には訳語にも原語にも混乱があり、また、必ずしも3つでなければならない【2つや4つではなく3つ】と主張されているわけでもないが、ここではこちらの論文で採用されている『概念化された自己』、『プロセスとしての自己』、『視点としての自己』という呼称を使わせていただくこととしたい。『3つの自己』を『3つの他者』に拡張すると、以下のようになる。なおこうした考えはすでにどこかの研究者が論じているはずだと思うが、定年退職後は充分に論文検索ができないため参考にすることができない、ということで以下はあくまで私個人の考えとなる。
2.の『プロセスとしての他者』は、相手との現実の交流の中で体験される側面である。相手が亡くなれば直ちに消滅する。但し直接の対面ばかりでなく、リアルタイムに交信されるSNSの中でもある程度体験されるので、後述するようにAIを活用して仮想の他者、時には亡くなった人と対話することも可能になってきた。 3.の『視点としての他者』は『視点としての自己』と表裏一体をなす側面もあるが、単に「自己=1人称」、「他者=3人称」で区別されるものではないように思う。一般的な他者は「3人称」であり、他者と接する時には2人称となるが、夫婦、家族、自分の所属する組織・集団、あるいは自分の国に言及する時には「1人称複数=私たち」となる。「他者の死」という点からみれば、3人称の他者が亡くなったというのは単に「きょうは雨が降りました」と同じような出来事であって悲しくなるものではない。他者が亡くなって涙を流すのはその他者が「1人称複数」つまり「私たち」として語られる時であろう。 1人称で語られる他者が亡くなると、生者はプロセスとしての他者を失うが概念としての他者はそう簡単には消えない。そのギャップがもたらす悲しみを埋めるために、死後の世界を想定し、仏壇やお墓の前でバーチャルな死者と対話をする(=対話できたと思い込む)ことにはそれなりの意義があるとは思う。何度も述べているように、死後の世界があるかないかは証明されるようなものではない。残された生者の悲しみを減らし、かつ現実生活に支障をもたらさないのであれば別段否定する理由はない。 もっとも、いつまでも死んだ人のことばかりを想っていては前向きな生活に進めない恐れもある。もう20年近く前のことになるが、2006年3月18日の楽天版で、 ●愛と死をみつめてと冬のソナタ という話題を取り上げたことがあった。年齢や文脈にもよるが、大切に思う人と死別したあと、別の相手との交流を深めて第二の人生を歩むというのはまっとうな生き方であり、第三者から「裏切りだ」などと批判されるものではないと思う【←逆に何が何でも再婚しろとか主張するつもりもないが】。 さて、最近よく耳にするのが、生成AIで、仮想的な故人と対話するという話題である。2月28日の日記ではとりあえず以下のような記事をリンクさせていただいた。
ま、私のアバターなどと対話したいという奇特な方はおられないと思うが、よく知られた偉人と対話をしたいという人には好都合であろう。 もっとも、生成AIが提供する仮想の故人があまりにもリアルになってくると、上記の冬ソナのエピソードと同様、残された人はいつまでたっても前向きに生きられなくなるという恐れがある。また、今回の死後の世界の話題とは全く関係無いが、生成AIが仮想の恋人を提供してくれるようになると、生身の人間ではなくバーチャルな相手のほうに恋をするようになり、結果的に世の中は非婚者ばかりとなって少子化に拍車をかける恐れもある。やはり人間関係の基本は、お互いの欠点を認め合った上で現実の世界の中で構築していくべきであろう。 次回に続く。 |