じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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2010年版・岡山大学構内でお花見(3)

 農学部農場の梅のなかでいちばん早咲きの品種が花を開き始めた。ここにはいろいろな品種があり、遠方に出かけなくても十分にお花見ができる。


1月26日(火)

【思ったこと】
_a0126(火)[教育]平成22年度センター試験(1)血液型性格判断をめぐる疑似科学的な発言

 先日行われたセンター試験について、ちょっとだけコメントをさせていただく。センター試験のことは、以下のリンクのように、ほぼ毎年、何らかのツッコミを入れていたのだが、 さいきんはすっかりツッコミ意欲が減退し、問題や解答に目を通そうという気力さえなくなりつつある。




 そんななか、たまたま目にした問題について、思ったことをいくつか。

 まず、「倫理」の問7のところで、「疑似科学的な発言の例として最も適当なものを選べ」という問題が目に止まった【句読点等は改変】。
  • @「血液型性格判断が科学的に否定された場合でも、ふだんの会話の中で盛り上がる話題としてそれを持ち出すのならば、全く問題はないよね」
  • A「血液型性格判断が科学の教科書で否定されたとしても、血液が生命を維持しているのだから、それはやはり科学的に見て正しいはずだよね。」
  • B「血液型性格判断がある種の研究者により正しいと主張されたとしても、新たな反証によって否定され得るので、絶対視しない方がいいよね。」
  • C「血液型性格判断が現在までの研究で否定されたのなら、それを覆す明らかな証拠が出されない限り、科学の主張としては信用できないよね。」
問題全体の趣旨から言って正解がAであることは異論はないが、そもそも、血液型性格判断が正しい、とか、否定された、といった議論はできるのだろうか?

 こちらの論文などで繰り返し強調しているように、「血液型性格判断」なるものは、二者択一型で真か偽が議論できるような数学的命題ではない。血液型と、ある種の性格(←こちらの感想にも述べたように、そもそも「性格」という概念自体、根底から問い直さなければならないのだが)には何らかの相関があるかもしれないし、いくら調べても、何の相関も見出せないかもしれない。また仮に相関があっても、日常生活行動を予測できるほど顕著な差ではないかもしれない。反証可能な形で議論されなければならないとよく言われるが、経験科学の範疇では、1つの実験や調査結果で、決定的な証拠が得られることはまずありえない。偶然に起こる確率が1%以下であることを示したとしても、それに対して1%の偶然にすぎないと反論することは間違いとは言えない。そうではなくて、経験的事実の積み重ねのなかで、少しずつ予測や制御の精度を高め、簡潔で利用しやすいツールを組み立てていくことが心理学の基本であると思う。リーマン予想は最終的には真偽いずれかで決着する。「ツチノコは存在するか?」という議論は、(ツチノコという定義・基準が明確であれば)1匹のツチノコを発見した時点で「存在した」という主張の正しいことが証明されるであろう。しかし、血液型と性格の議論は、二者択一型で決着するようなモノでは断じてありえない。真か偽か、という二者択一型の議論をふっかけること自体が疑似科学的な発言である。

 なお上記の選択肢のうち@は、「ふだんの会話の中で盛り上がる話題」が(当事者がそれを意図するか否かに拘わらず)差別や偏見を助長する可能性がある限りは、社会的に望ましくない発言であるということになる。但しそれは疑似科学とは直接関係がない。

 Bは、科学的な議論であれば当然であり、絶対視は禁物。というか、自然科学の世界であっても、社会的に構成された概念で議論をしている限りは、将来的に、別の枠組みに議論が移行することがある。万有引力の法則などがその例。

 Cの「現在までの研究で否定されたのなら」というのは、上に述べたとおり、二者択一の議論を前提にしているので、ボツ。いくらかマシな形に書き換えるのであれば、

●血液型とある種の性格との相関については、「相関がない」という帰無仮説のもとでいろいろ検討していく必要がある。帰無仮説を棄却できない段階で、思い込みや自己体験だけに基づいて「当たっている」とか「信じる」と言うのは、科学的な態度とは言えない。

ということになるかと思う。

次回に続く。