じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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理学部西側の芝地のブタナ。毎年この時期に一斉に花を開く。過去記録が以下にあり。 |
【思ったこと】 170512(金)ボーム『行動主義を理解する』(4)実在論 昨日に続いて、 ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社. の話題。 本書(第二版の翻訳)の第2章ではまず、実在論と実用主義について語られている。実在論というは要するに、この世界が我々とは独立して存在しているという考え方であり、私自身はこれは正しいと思っている。しかし、人間は行動を通じてその世界と関わっており、それぞれの個体にとっての世界は、我々と「独立した」世界ではなく、我々が「関わる」世界である。じっさい、定義上、「我々と独立した世界」は見ることも感じることもできない。我々が見る世界というのは、「見る」という行動を通じて構成された世界であって、それ以上でもそれ以下でもない。 それでもなお「我々と独立した世界」を考える必要があるとしたら、それはおそらく、
とにもかくにも、我々が行動する時に接する世界というのは、定義上「我々と独立した世界」ではない。我々をとりまく世界を1立方メートルごとに区切って、その中の分子構成やエネルギーをいくら精密に測定したところで、何ひとつ理解したことにはならないのである。 少々脱線したが、本書(翻訳書26頁)のほうでは、バークレイ(ジョージ・バークリー)の「人間の知識の原理」(人知原理論)が紹介されていた。リンク先にもある通り、バークレイは、「存在することは知覚されることである」(羅: Esse est percipi、英: To be is to be perceived )という基本原則を提唱したとされている。 本書によると、バークレイ後の哲学者の中には、感知し得る対象が存在するということについての彼の疑念を受け継ぎ、世界の対象は推測でしかない、あるいは語り方でしかない、という考えを受け入れた。しかし、科学の哲学者たちは、実在論にこだわり、バークレイの主張と異なる方法で取り組もうとした。その1つとして、バートランド・ラッセルによる感覚データという概念が紹介されていた。 感覚データは内的なものであり、主観的なものである。しかしそれは、「外部に存在する」客観的な現実の世界を理解するための手段である。本書29頁にまとめられているように、実在論は、
次回に続く。 |