【連載】チコちゃんに叱られる! 関東・関西の「関」ってなに?/関西学院大学と関西高等学校
9月20日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。この日は、
- 関東・関西の「関」ってなに?
- ナマケモノはなぜなまけている?
- ZAZY天才化計画進捗状況
- 焼き肉のニオイがずっと残るのはなぜ?
という4つの話題が取り上げられた。本日はこのうちの1.について考察する。
関東や関西の「関」については、放送では、『鈴鹿関・不破関・愛発関の「関」』が正解であると説明された。
中世の日本の歴史に詳しい本郷和人さん(東京大学史料編纂所)&ナレーションによる解説は以下の通り【要約・改変あり】。
- 関所は古くから日本各地の道や国境に設けられそこを通る人をチェックする現在の空港の入国審査や保安検査場のような場所。人の行き来が監視しやすくするために主に山に挟まれた道が狭いところに設置された。
- 古代の日本は奈良・京都に朝廷があってそこが日本の中心だった。関所は朝廷やその周辺の安全を守る目的で作られた。なかでも朝廷に直接繋がる道にある東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関(あらちのせき)の3つは朝廷の安全を守る上で特に重要な役割を果たしていた。
- 現在の関東は東京・神奈川・千葉・埼玉・栃木・群馬・茨城を指すが、昔は3つの関所より東側の中部地方や東北地方もすべて「関東」と呼んでいた。
- 関東という言葉がいつから使われ始めたのかはっきりとは分かっていないが平安時代の「続日本紀」では既に使われている。
- 奈良時代ぐらいになると朝廷の勢力が東に延びていくにつれ現在の中部地方は関東からは離脱していく。朝廷の軍事活動によって関東は北へ広く陸地が続いていることがわかると、現在の東北地方は「みやこから延びる道の奥にある」という意味の「みちのく」と呼ぶようになった。
- 鎌倉時代になると鎌倉幕府を中心とした国々が関東と呼ばれるようになる。京都や奈良の人たちは幕府の武士を「関東の武士」と呼んだり鎌倉幕府が支配した土地を「関東御分国」と呼ぶなど関東という言葉は鎌倉幕府そのものを指す言葉としても使われるようになった。室町時代になり幕府が京都に移ると関東の支配が手薄になることを恐れた室町幕府は第2の幕府・鎌倉府を置いた。鎌倉府の支配下にある国々が関東と呼ばれるようになる。
- 明治時代になると廃藩置県によって都道府県が整備されていき関東は現在の1都6県になった。
- 「関西」という言葉が一般的に使われ始めたのはおそらく明治時代になってから。古くから日本の中心は京都・奈良だったのでそこにいる人たちはわざわざ自分がいる場所は西側だと区別する必要がなかった。ところが江戸時代後期に町人文化(化政文化)が盛り上がったことや明治時代にみやこが京都から東京に移ったことで日本の中心は東京と浸透し始めると関東より西という感覚が生まれ「関西」という言葉が生まれたのではないか。
放送ではさらに、関東出身の夫と関西出身の妻の3組の夫婦に東西文化の違いを話してもらった。
- 食文化では関東の卵焼きは甘いが関西はしょっぱい。
- 関東は焼きのり、関西は味付けのり。
- 配膳では関東は右に味噌汁で奥におかず、関西は右におかずで奥に味噌汁。
- 交通系ICカードで改札に入るには関東は最低でも初乗り運賃が必要だが関西は1円でも入っていればOK【但し鉄道会社によって異なる】。
ここからは私の感想・考察になるが、関東・関西ネタは雑学系番組でもしばしば取り上げられており、このWeb日記でも、チコちゃんの放送の中の、
といった話題についてメモ・感想を記したことがあった。個人的には「関東とは箱根の関の東、関西は関ヶ原の西」という感覚がある。
今回の説明では、関東は『鈴鹿関・不破関・愛発関の「関」』の東側の地域の呼称が由来であると説明されたが、古い文書に「関東」という呼称があったとしてもその後同じ地域を指す言葉として継続的に使われていなければ由来とは言えず、単なる偶然の一致という可能性もあるように思う。おそらく鎌倉時代の頃の呼称が始まりではないかと思われる。
いっぽう「関西」については、放送でも指摘されたように、天皇が住む京都をわざわざ西と呼ぶわけがない。なので「関西」という呼称はは明治以降、何らかの理由で急速に使われるようになったと推測される。ウィキペディアでは、
現在の「関西」という概念は、明治維新による東京奠都以後(特に大正末期・昭和初期以降)になって「畿内」や「上方」に代わる用語として醸成された。学会では、皇居の東京移転によって皇居所在地を意味する「上方」に語弊が生じたため、上方方面を意味する用語として、明治政府が積極的に普及させたとの歴史が研究発表されている。なお、「近畿」という用語およびその範囲が定着するのも明治以降であり、1903年に地理の第一期国定教科書内で使用されたことを契機とする。
明治以降は、江戸時代以前と比べて「関西」が指す範囲は固定化され、京阪神とその周辺地域を指すことがほとんどとなった。もっとも、岡山県岡山市の学校法人関西学園関西高等学校(1894年より「関西」の名を使用)や、東海・北陸で刊行された医学雑誌『関西医界時報』(1912年〜1964年)のように、明治以降にも京阪神周辺以外の地域を指して「関西」を用いた例は存在する。
というように解説された。おそらく明治政府による普及活動が功を奏したものと推測される。
なお上掲で言及されている関西高等学校は「かんぜい」と発音される。ウィキペディアには、
1894年、当時校長代理をしていた片平周三郎が東京で修行中、福沢諭吉が関東での教育事業を展開していることに憧れ感銘を受け、自らも関西の地でそれを行いたいと決めたことに由来する。実際に片平が教育事業を行ったのは関西よりも西にある岡山の地であるが、「広く関西からも優秀な生徒を集めたい」として同校の校名とした。当時の読み方は「カンサイ」であった可能性がある。
読みについては、関西高校の戦後初めての甲子園出場である1948年夏、および1949年春のユニフォームには「KANSAI」と書かれ、一方で校歌は「カンゼイ」であり、そのことから、当時は「カンサイ」と「カンゼイ」の呼称が混同していた。しかし後になって創立ごろの読みとしては「カンゼイ」の方が正しかったのではないか、という声が挙がり、校歌にもならって1960年春の甲子園出場時より「カンゼイ」が正式な読みとなっている。但し、「カンサイ」を岡山弁風に発音すると「カンセー」になり、さらにそれが訛って「カンゼー」と呼んでいたことから、という説もある。
と説明されており、かなり歴史が古い。
もう1つ関西学院大学(かんせいがくいんだいがく、くゎんせいがくゐんだいがく)については、
関東に対する関西として、西日本の指導者ともなる意味を込めて1889年8月に「関西学院」と名付けられた。「学院」の名称は当時多くのミッションスクールが「英和学校」「英和女学校」などと呼ばれていた伝統を破るものであった。
また、当時のいわゆる「新進学徒」は漢音ばかり読む傾向であったので「関西」を「クヮンセイ・クワンセイ」と漢音で呼ぶこととした。現代仮名遣いの制定によって「くわ・くゎ」の表記が少なくなった現在も、その表記は踏襲されている。当時の日本では、幕末以降の和製漢語はほとんどが漢音読みであるため、漢音での読みが進んだ印象を持たれるようになり、本来は呉音読みする単語も漢音読みをすることが若者を中心に流行していたため、「関西」も「かんせい」と読んでおり、校名もその読み方でつけられた。つまり、当時は「格好の良い」読み方であったわけである。いずれにせよ、関西学院を「かんさいがくいん」と読むのは誤りである。
という説明があった。ちなみにローマ字表記では「Kwansei Gakuin University」というように「K」のあとに「w」が入っている【関西高等学校のほうは「Kanzei」。また学校法人のほうは、
- 関西学院大学:学校法人関西学院
- 関西高等学校:学校法人関西学園
というように漢字では1文字違いとなっている。学校法人関西学院のほうは、「がっこうほうじんくわんせいがくいん、KWANSEI GAKUIN)と表記されるようだ。
次回に続く。
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