【連載】最近視聴したYouTube動画(6)岡田斗司夫さんの動画をもとに宗教について考察する(4)「来世」、「天国」、「輪廻転生」
昨日に続いて、最近視聴したYouTube動画の感想・考察。引き続き、岡田斗司夫さんの動画をネタに宗教についての考察を進める。但し本日は少々脇道に逸れて、昨日取り上げた「前世」の関連概念である「来世」、「死後の世界」、「輪廻転生」、さらには「天国」、「極楽浄土」、「黄泉」、「地獄」などについて考察する。
これらの概念は時間的に区別できるほか、以下のような観点から分類することもできるように思う。
- あくまで現実世界に言及しているのか、現実とは異なる物理法則によって支配される別世界に言及しているのか?
- 何を説明するための概念なのか?
- 誰のための概念なのか?
- 「魂」の同一性はどこまで仮定されているか?【自分が今の自分のまま別の世界に行くと考えるか、別のものに「生まれ変わって」存続すると考えているのか】
例えば、「前世」という概念は、昨日取り上げた限りでは、
- 現実世界において、努力、悪行、善行といった「前世」の行いが「現世」に反映すると考える。つまり現実世界における過去と現在のつながりを想定しているだけで、宗教世界の仮定は必須ではない。
- 個人における運・不運、現代社会の不公平を説明する。
- 現実世界で生きている人のための概念
- 「前世の因果」という概念は「魂」の同一性を前提にしている。といっても、前世の自分がどこの誰かということまで同定する必要はない。例えば「中古車が故障したのは、前の所有者が乱暴な運転をしていたからだ」と考えるのは「中古車の前世の因果」と言えるかもしれないが、前の所有者が誰であったかという個人情報まで知る必要はない。
では「天国」はどうか? 「天国」という言葉が使われるのは、概ね、
- 終末期を迎えた人が「自分が死んだら天国に行かれる」と語る場合
- 故人について語る場合
の2通りではないかと思われる。但し日本人の場合、1.は主としてキリスト教徒に限られている。2.についてはウィキペディアに以下のように記されている。
●日本において支配的な宗教である神道及び仏教には本来「天国」という用語は無い。しかしながら日本人が故人について語る時、「天国の誰々」と呼ぶことはあっても「極楽の誰々」「黄泉の誰々」とは滅多に言わない。
ということで、「天国」は終末期を迎えた人、もしくはその人の死後に遺族が語る時に使われる概念であると言えそうだ。いずれも、「死ぬ前の人」と「天国にいる人」は同一であることが必須となる。その人が天国で「生まれ変わって」別人になってしまったらもはやその故人だけを弔う意味が無くなってしまう。
上記の1.で終末期の人が「自分が死んだら天国に行かれる」と語ることは死への怖れを低減する効果がある。また2.の「故人について語る」ことは死別の悲しみを低減し、「天国にいる故人が私を見守ってくれる」と考えることでその後の前向きな生き方を支えることにつながる。以上は日本の祖霊信仰にもつながるところがある。
「来世」についてはウィキペディアに詳しい解説があるが、宗教によって捉え方が大きく異なるようである【要約・改変あり】。
- 来世(らいせ、らいしょう)あるいは後世(ごせ、ごしょう)は、今世(今回の人生)を終えた後(死後)に、魂が経験する次に来る人生を指す概念(死生観)。また、動物においては全体集合魂に帰一し、新たな個体が月の生理に従い生み出されるだけで来世は人間のようには存在しない。
- 神道においては常世(黄泉)のことを指す。
- 仏教では「三世」のひとつ (「前世、現世、来世」のこと。仏教以外においては人生に焦点を当てた「過去生、現在生、未来生」という表現もある)。
- ヒンドゥー教では、自我の本質としてアートマンの概念を持つ。ウパニシャッドの時代には梵我一如の考えが説かれた[1]。それは、宇宙の全てを司るブラフマンは不滅のものであり、それとアートマンが同一であるのなら、当然にアートマンも不滅のものであるという考えであった。これに従うならば、個人の肉体が死を迎えても、自我意識は永遠に存続するということであり、またアートマンが死後に新しい肉体を得るという輪廻の根拠でもあった。
- 仏教もインド哲学の思想を引き継ぎ、輪廻の立場に立つ。釈迦は「死んだら無になる」として来世を否定した唯物論(順世派)を、悪見、六師外道として位置付け否定している。
下記は転生を前提とした考え方である。現世を中心に考える宗派では、六道を自分の心の状態として捉える。たとえば、心の状態が天道のような状態にあれば天道界に、地獄のような状態であれば地獄界に趣いていると解釈する。その場合の六道は来世の事象ではない。
- 浄土教では、一切の迷いが無くなる境地に達した魂は浄土に行き、そうでない魂は生前の行いにより六道にそれぞれ行くと説く宗派がある。
- 日蓮の教えでは、(転生があるにしても)今の自分(小我)に執着するあまり、いたずらに死を恐れ、死後の世界ばかりを意識し期待するより、むしろ自分の小我を越えた正しい事(大我)のために今の自分の生命を精一杯活かし切ることで最高の幸福が得られるのだ、とされている(『一生成仏抄』)。
- 真言宗などの密教でも、大我を重要視して即身成仏を説き、天台宗も本覚思想から、「ここがこの世のお浄土」と捉え、来世について日蓮と同様の捉え方がなされる場合がある。
- 「行ったきり」の死後の世界:「今の人生→死後の世界」という一方通行的な世界観。自分が今の自分のまま別の世界に行くという考え方。厳密に言えば「来世」という転生を前提とした項には属さないかもしれない。この意味では、「来世」の類義語として、あの世(あのよ)、死後の世界(しごのせかい)が挙げられる。
- 日本での通俗「天国、地獄」:"地獄には閻魔がいて生前の罪を裁く"とする考え方も民衆の間にはある。これは、インドで生まれ、中国の民衆によって脚色され、後に日本の民衆にも広まった考え方であるが、あくまで通俗的なものであり、真面目な仏教の概念ではない。しかしながら例えば天台宗も閻魔などによる死後の裁きなどがあるという「通俗」は支持しており、輪廻転生的な世界観とも矛盾するものではない。
上記でも言及されているが、仏教が「輪廻転生」を認めていたのかについてはいろいろな議論があるようだ【例えばウィキペディアや、こちらの文献参照】。勉強不足ということもあるが、私自身は子どもの頃から、以下のような疑問を持っていた。
- 輪廻転生からなぜ解脱しなければならないのか。あるがままに続けていけばそれでよいのではないか。
- 六道には苦しみはあるかもしれないが、そもそも肉体的な「苦しみ」というのは生物が有害事象から逃げたり回避したりするために有用な機能として身につけたものであってそれ以上でもそれ以下でもない【肉体的な苦しみは生物が生きていくために有用な機能として備わっているのであり、「地獄」というような苦しみばかりの世界というのはありえない。いちばん苦しい世界があるとすればそれは現実世界】。いっぽう精神的な「苦しみ」は人間が言語を身につけたことで派生したもの。病的な苦しみがあれば医療的に緩和するが、純粋に言語派生的なものは受け流すほかはない。
- 肉体を構成する分子はすべて過去に存在した別の生物のリユースである【無機物は除く】という意味では、地球上の生物はみな輪廻転生を繰り返している。また、親から子へは、遺伝子を通じてさまざまな行動特性が継承される。とはいえ「前世」の生物と「現世」の生物を同一個体(同じ自分)であると見なすかどうかはあくまで有用性による。しかし「同じである」と見なすことが「異なる」と見なすことより有用であるという根拠は見当たらない。
なお「輪廻転生」や「死後の世界」については岡田さんの複数の動画でも言及されているので、次回以降に改めて取り上げさせていただく。
次回に続く。
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