じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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2010年版・岡山大学構内でお花見(63)ユッカの花と旧事務局

 定点観察対象のユッカ。毎年一度は写真を掲載している。以下に関連記事あり。


6月22日(火)

【思ったこと】
_a0622(火)[心理]「悪」だけの世界は存在しない

 昨日の日記で、NHK「ハーバード白熱教室」の話題を取り上げた。サンデル教授は、「正義を考える上で、善について議論することは避けられない」という考えを説いておられた。サンデル教授がお考えになっている「善」についてはもう少し勉強した上でないとコメントできる立場にはないが、ここでは一般論としての「善」について少しだけ考えを述べておくことにしたい。

 「善」を議論する上で欠かせないと私が思うのは、「悪」との対比である。但し、善と悪は対称ではなく、一般には「善」のほうが多元的であると言える。(昨年の12月30日の日記参照。)

 しかしそれはそれとして、
  • 善も悪も無いというニュートラルな状態を起点として、それよりポジティブなところにある「善」だけを議論できるのか。
  • そもそもニュートラルな状態(絶対的なゼロ平面)など存在せず、あるのは、上向きのベクトル(ポジティブな方向)と下向きのベクトル(ネガティブな方向)だけである。前者を「善」、後者を「悪」と名付けているだけにすぎない。
という2つのいずれかをとるのかによって、善や悪についての議論のしかたは変わってくるはずだ。

 私自身は、「善」や「悪」には絶対的なものはなく、その時代や個々の場面において、善悪の内容はどのようにも逆転するものだと考えている。但し、1つの社会をとって、その中での善悪を議論する時には、「その社会にとっての善」や「その社会にとっての悪」は当然存在し、善か悪かについての一貫性のある原理が構成できると思っている。今の日本の社会では、人を殺したり、泥棒をすることは悪であり、そのことには疑いの余地はないし、当然、その社会の中で罰せられなければならないと思う。そういう場面で、別の時代の別の社会、あるいはヒト以外の動物の行動を例に挙げて、善悪は相対的なものだから罰するべきでないなどと主張するとしたら全くのお門違いである。

 そういえば6月23日朝の「おはよう日本」で、映画「アウトレイジ」の話題が取り上げられていた。登場人物がすべて悪人であるという点で話題を呼んでいるようだが、北野監督によれば、暴力と笑いには密接なつながりがあるという。それより少し前に放送されたたけしのニッポンのミカタ!(6/4)でも悪(この場合は「ワル」)について取り上げられていた。番組サイトにも記されているように、「あえて悪役になろう!」という考えもある。
数理生態学の世界的権威、静岡大学・工学部システム工学科の吉村教授によると、「人間の成長にも“悪役”が必要。生物全般でも本当の悪がないと生物は進化しない。褒めて育てるだけではダメ、都合の悪いことを言ってくれる悪役が必要。」と警鐘を鳴らす。社長があえて悪役に徹し、見事業績アップに成功した従業員 210名の、コンピュータソフトウェアの会社がある。...【中略】...しかし、今や上司が部下に対し、悪役になれない時代。ある調査でも、部下をうまく叱れなかった経験のある上司がおよそ7割に上ることが判明した。そんななか、上司達を悪役に生まれ変わらせる驚くべき場所が。その名も管理職のための「悪役上司養成トレーニング」。...【後略】
 おそらく、「善」だけの世界は存在しないし、そういう世界には進歩はない。常に悪が登場し、それを克服するという姿勢はどうしても必要となる。

 だいぶ前になるが、2003年2月27日の日記で、映画「ロード・オブ・ザ・リング」に関連して、以下のような考えを述べたことがあるので再掲しておく。
,,,映画と関係の無い一般論になるが、「悪」のみから成り立つ社会システムというのは、どのような宇宙にも存在しえないと思う。いかなるシステムも、それを維持し、必要に応じて再生産や繁殖を行う機能を持たなければ自己崩壊してしまうからだ。

 仮にこの世の中に、テロや大量破壊のみを目ざす勢力が現れ他国を焼き尽くしたとしても、その勢力が自らを維持・拡大するためには、やはりどこかで平和な生産活動が行われなければならない。1つの島に殺人犯人ばかりを集めて自給自足の生活をさせた場合でも、最後は、秩序あるコミュニティが形成されるだろう。要するに「悪」は、ある閉じた社会に外から攻撃が加わる場合、もしくはその社会の内側で構成員を脅かす要素が存在した時に名付けられる概念であろうと思う。