じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
【思ったこと】 _10627(水)[心理]オーストラリア研修(その3)「気晴らし」の療法 今回の研修の中心的な目的の1つは、アデレードで「ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy、以下『DT』と略す)」のレクチャーを受け、その現場を視察・体験することにあった。 DTというのは日本では聞き慣れないセラピーの一種であるが、今回のレクチャーで配布された資料では、 WHAT IS DIVERSIONAL THERAPY?というように紹介されていた。 芹沢隆子氏は、『 OTジャーナル』の「海外に学ぶ 3.オーストラリアの痴呆症ケア」(2000年, 34, 603-606.)の中でこのDTを次のように紹介している。 ......【略】.....「ディバーショナル・セラピー(以下,DT)」.diversionは「気分転換・気晴らし」などの意味を持ち,「気晴らし療法士」と訳されている.彼らの活動は痴呆症にとっても非常に興味深い.ちなみに、芹沢氏はこの時点で「diversional」に「ディバーショナル」という発音を充てておられたが、その後ご自身でも「ダイバージョナル」というように変更されたようだ。実際、オーストラリア英語(6/24の日記に従えば「英語」ではなく「愛語」)では、「ダイ」と発音するほうがポピュラーなようだ。 ところで、このセラピーはなぜ「diversional」あるいは日本語の「気晴らし」と呼ばれるようになったのだろうか。アデレードにある州立高等教育機関TAFE(日本の短大や専修学校レベルに相当する教育機関)で、DT協会の代表の女性に直接このことを尋ねてみたところ、オーストラリアの中でも「diversionalという呼称をハイト(hate)している人々も居ます。必ずしも呼称にはこだわらない。」というお答えだった。実際、このTAFEの履修コースは「diversional」ではなく、「リクリエーション&レジャー&健康」をテーマにしていた。 「diversional」の訳語である「気晴らし」も誤解を招く恐れがある。岩波国語辞典によれば、気晴らしとは「ふさいでいる気分を直そうと、心を他のものに向けること。気散じ。」というように説明されているが、上掲の芹沢氏の記事で、 【DTは】「その人が何をしたいと望んでいるか」が基本で,あくまでも利用者の意思を尊重し,利用者自身がプログラムを選択することで,自信につなげるのだという.ある痴呆専用デイサービスセンターではDTのリードでボーリングゲームが行われ,別の部屋ではクラシック音楽,別の部屋ではポピュラーソング…と,全員で同じことを一斉にするということはなく,1人の大人として個人の好みと選ぶ権利がDTによって守られ,多様なプログラムが提供される.と特徴づけられていることからも分かるように、単なる気分転換ではなく、自信や自立を念頭においた、より質の高い「diversion」を目ざしているものと思われる。 ここから先はあくまで私の個人的な判断になるが、作業療法からDTが特化してきた背景には、オーストラリアの高齢者福祉施設の運営事情や教育制度も絡んでいるように思った。日本国内で当初は専門学校や短大として出発した作業療法の教育機関が4年制に移行していることから分かるように、元来、作業療法士というのは4年制あるいは大学院修了までを必要とするハイレベルの教育を必要とする資格であるようだ。しかし、資格がハイレベルになるということはそれだけ人材確保が難しくなり人件費も高額になる。NPOなどが運営するすべての施設がOTを常勤として雇用することは現実には難しい。かといって、ボランティアや無資格の非常勤職員が、個人的な体験や趣味だけに基づいて「気晴らし」に携わることにも問題がある。そこで、例えば短大レベルの教育機関で、「リクレーションとは何か」について体系的な教育を行い、一定の履修要件をクリアした者を各施設に常勤として雇用することのほうが、入所者にとっても施設の経営にとってもプラスになる。おそらく、このような背景から、DTの特化が進んできたのではないだろうか。次回に続く。 |
【思ったこと】 _10628(木)[心理]オーストラリア研修(その4)レジャーと生きがい 昨日の日記で、「ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy、以下『DT』と略す)」が、少なくともその一部に「レジャー&健康セラピー」の内容を含むことを紹介した。 しかし、「気晴らし」と同様、日本的な意味での「レジャー」もまた誤解を生じる恐れのある言葉であることに留意しておく必要がある。 岩波国語辞典によれば、 レジャー:余暇。ひま。余暇の遊び。 とされており、対応する日本語の「余暇」は 余暇:仕事をはなれて、自分の勝手に使える時間。ひま。 となっており、これだけでは引退して年金生活を送っている高齢者は何もしなくてもレジャーを楽しんでいるように思われかねない。 もちろん英語的な意味も日本語とそれほど異なるわけではない。ただ、ランダムハウス英語辞典にもあるように、「leisure」には
義務的な労働から切り離され、「しなくてもよいが、行動すれば好子(positive reinforcer)が伴う」能動的な行動 という要素が多分に含まれているように思われる。となると、「レジャー」産業の宣伝に惑わされて、受身的に選択させられるような娯楽はレジャーとは言えない。一日中テレビばかりをみてゴロゴロしているのもレジャーとは異なるようにも思える。 じっさい、アデレードの州立高等教育機関「Douglas Mawson Institute of TAFE」の教室には、次のようなポスターが掲げられていた(写真左)。 Leisure is ..... a vital force that influences everyone's life. It is essential to happiness, to a sense of belonging, to creativity, to accomplishment and to satisfaction in living.こうなってくると、レジャーは単なる「暇つぶし」ではなく「生きがいの必須要件」もしくは「生きがいの本質そのもの」であるということになる。また、別のポスター(写真右)には、 It is useful to view leisure experiences as taking place along a continuum, with the individual progressing from outer-directed activities undertaken in their obligated time through to motivation which is inner-chosen recreation activities.とあり、ここでも、義務的な労働から自主的能動的な活動への転化が示唆されていた。但し、最後の「inner-chosen」という部分がどういうプロセスを意味するのかについては、もう少し尋ねてみたいところでもあった。 この日記でたびたび引用しているスキナーの幸福(生きがい)の定義 Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. [行動分析学研究、1990, 5, p.96.] /生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである。に酷似したスローガンも見ることができた。すなわち、 The final choice of an activity, or of a way of doing an activity, must always be taken 'as much as possible by the individual' so as to maximise his/her positive experience of the activity.という表現であった(写真左)。今回の研修全体で感じたことでもあるが、DTやアルツハイマー協会代表者の講演などでは「behavior」ではなく「activity」という言葉ばかりが使われているが、実質は同じものを意味しているようだ。「 maximise his/her positive experience of the activity」が「behaving because positive reinforcers have then followed」と同義であると考えるのは行き過ぎだろうか。 レジャーが本質的に個人に属するものであるとすると、誰もが楽しめるとか、集団内の全員が同じことをすべきだといった発想は否定される。このことに関しては、 Leisure is -と明記されていた(写真右)。 もう1つ、レジャーがいくら個人本位で多様であるべきとしても、我々は、一人で好き勝手に楽しめるわけでない。この点については、 No person is absolutely independent; we are all social beings and thus dependent on others to varying extents and in various ways throughout our lives.というポスターも貼られていた(写真左)。 以上、「Douglas Mawson Institute of TAFE」の演習室に貼られていたポスターを中心にレジャーと生きがいについて考えてみたが、このことを深く理解するためにはAussieの労働観、自由観、生きがい観などについてもっと知る必要があるようだ。この日記でかつて連載したしごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(続編もあり。「日本行動分析学会ニューズレター2000年 春号」の中の拙稿も合わせて参照されたい)との関連も考えてみる必要がある。次回に続く。 |
【思ったこと】 _10629(金)[心理]オーストラリア研修(その5)回春庭園と回春室? アデレードでは2日間にわたり「ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy、以下『DT』と略す)」のレクチャーを受け、現場の視察・体験に参加した。今回はその内容を紹介したいと思う。もっとも、今回体験したのは、「MURRAY WING」という、痴呆症ケア施設(居住者18人)において実践されているプログラムに取り入れられているものであり、DTもそれに特化された内容になっていた。 ちなみにこのプログラムは
実際に体験したなかで特に印象に残ったのは、「SENSORY GARDEN」と「MULTI-SENSORY ROOM」であった。 前者(写真左上)は、痴呆症ケア施設の外庭に作られたもので、居住者はいつでもそこを散策することができる。日本の枯山水庭園のように静かに眺めるものではなく
後者(写真右上)は、施設の一室に設けられたもので、初めに種々の味のするキャンディを食して味覚を刺激し、リラックスチェアに座りながら音楽、照明、香りのする煙、暖かさ(ホース状のものをにぎる)、触覚(皮膚を刺激するような飾り)など、文字通りマルチな刺激を受容することができる。ジェットコースターのような加速度的な刺激は与えないのかとも思ったが、心臓や骨の弱いお年寄りには過激な運動は禁物であろう。尋ねた限りでは、ロッキングチェアを揺らす程度の刺激は効果がありそうだということだった。次回に続く。 |
【思ったこと】 _10704(水)[心理]オーストラリア研修(その6)セラピーは目的か、手段か?(その1) 大学改革関連の話題を取り上げていたために4日間ほどあいだが空いてしまったが、6/17から6/24まで参加したオーストラリア研修の話題を引き続き取り上げたいと思う。 アデレードでレクチャーを受けた「MURRAY WINGプログラム」には、ダイバージョナル・セラピーを初め、実に多様なセラピーや諸活動が含まれていた。一口で言えば、食事や排泄など最も基本的な生活と、個人が自由に行う活動、会話などを除けば、組織的に行われる活動の全てが含まれていると言ってもよいのではないかと思う。 これらを見学して、「セラピーは手段か目的か」とふと考えた。 いっぱんに、セラピーというと、心身機能の回復・改善を目ざすものであるとの印象を受ける。ランダムハウス英語辞典によれば、therapyには
しかしそればかりではない。セラピーには「緊張を解きほぐすための活動[趣味,仕事など]」という意味も含まれており、この場合、治療方法としての有効性よりも、それを受けた人がどの程度リラックスしたか、満足したかということのほうが重視される。 若者が交通事故で怪我をしてリハビリを受ける場合は、仕事や勉強に復帰するための手段として位置づけられる。いっぽう、高齢者の場合は、必ずしも手段ではなく、むしろそれをすること自体が楽しみであるような活動が多く取り入れられて当然であろう。となると、どういうセラピーを導入するかということは、回復や改善の手段としての有効性という観点だけでとらえられるべきではない。もっと別の視点が必要ではないか。次回はこのあたりを考えてみたいと思う。 写真の説明(左上、右上、左中、右中...の順で)
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【思ったこと】 _10705(木)[心理]オーストラリア研修(その7)セラピーは目的か、手段か?(その2)「代替可能型」の手段と「努力達成型」の手段 昨日の日記では、「目的か手段か」という対立軸でセラピーを考えてみたが、じつは、「手段」と言っても、代替可能型のものと、努力達成型のものとでは、大きく性格が異なり、一括りには語れないところがある。 「代替可能型」というのは、「目的達成のためには手段を選ばす」というタイプの手段。例えば、マイカーを買うために200万円の資金が必要になったとする。それを得るために、アルバイトに精を出す方法もあれば、宝くじに期待する人もいる。そのさい、どの手段をとるかは、達成手段としての有効性や確実性、コストの量などによって決まってくる。たとえつまらないアルバイトでも賃金が多ければそれを選ぶであろう。これらの場合、手段として行動すること自体には、あまり生きがいは感じられない。 これに対して「努力達成型」は、目的がかなえられるかどうかよりも、それに至るプロセスを重視するもの。山登りなどは概ねこれに該当する。頂上付近の高山植物を眺めることだけが目的であるならば、ロープウェイを使っても、ヘリコプターを使っても同じことになる。しかしもし、苦労して登山道を登り詰めないと、美しい花を眺めた時の感動が得られないとするならば、手段は代替可能とは言えない。 「代替可能型」の手段の価値は、成功失敗によって大きく変わってくる。いっぽう「努力達成型」は、最終目的に至らなくてもそれなりの価値を与える。悪天候で登頂を断念しても、登山の途中で得られた楽しみは決してムダにはならないというわけだ。 「努力達成型」の手段がしばしば生きがいを与えるのは、刹那的な喜びとは異なる累積的な喜びが結果として伴うためであろう。どんなにわずかでも、努力の積み重ねで回復、改善が見られることは大きな喜びとなるはずだ。そういう累積的な喜びで強化されるような動物が進化の中で淘汰され生き残ってきたとも言える。 こう考えてくると、手段としてのセラピーを高齢者に実施することも決してムダであるとは言えないかもしれない。肝心なことは、セラピーを受けることによって生じたどんな小さな変化でも、成果としてフィードバックすることだろう。そのことが、やり甲斐や自信につながってくるはずだ。 次回は、「手段と有効性」について考えてみたい。 |
ブリスベーンにある戸建て型の高齢者入居施設。園芸療法と呼ぶまでもなく、各戸の玄関先には色とりどりの花が植えられていた。裏側(写真右)から見ると長屋風の作りになっていることが分かる。ブリスベンの一般住宅の多くは高床式になっており、長年住み慣れた住宅に近い作りになっているのかもしれない。 |
【思ったこと】 _10706(金)[心理]オーストラリア研修(その8)セラピーは目的か、手段か?(その3)有効性の確認できないセラピーは無意味なのか?/アニマルセラピー 何らかの機能回復や改善を目的としたセラピーの場合、その有効性をどう確認するかが大きな問題となる。しかし、今回のオーストラリア研修、あるいは、最近、園芸療法関係の論文を拝見する機会が増える中で、従来の「有効性」概念には重大な欠陥があるのではないかと強く感じるようになってきた。 その第一は、実験的介入によりグループ間の平均値を比較する方法(=個体間比較)の問題である。 例えば、ある薬に治療効果があるかどうかを検証する時には、その薬を投与する実験群と、服用させない(あるいは偽薬を投与する)対照群で、治癒の度合いが比較される。治癒の度合いを客観的に示す客観的指標(例えば治癒率、患部の大きさ、延命日数など)の平均値に統計的に有意な差があれば、その薬は有効であると結論される。 セラピーの有効性についても、これと同じロジックで、比較がなされる場合が多い。実施前に何らかの心理テスト、脳波、実生活における行動リストなどをチェックしておき、実施後にそれらがどう変わったのかを検討する。セラピーを実施しなかった対照群に比べて有意な変化が認められれば有効性が確認されたと結論されるのである。 しかし、このような個体間比較の方法には大きな問題点がある。薬のように明確な生理的作用をもたらす場合や理学療法のように身体機能回復の度合いが客観的に示される場合は別として、精神的な効果を狙ったようなセラピーにそのような「万能性」が期待できるものなのだろうか。実験群と対照群の間で有意差があったからといって、「誰にでも有効」という保証はない。100人のうち95人には有効であっても残りの5人には有害になるセラピーがあるかもしれないし、逆に、100人のうち95人には無効でも、残りの5人にはすぐれた効果を発揮するセラピーがあるかもしれない。画一的なやり方でグループの平均値を比較するよりも、それぞれの個体に合わせた、単一事例実験法の手続をもっと導入していく必要がある。要するに、あるセラピーが「誰にでも効くかどうか」などは極端に言えばどうでもよいことなのだ。特定の人間にとって、どういうセラピーが有効であるのかを確認することのほうがよっぽど大切なのである。 第二の点は、第一に述べた点と一部自己矛盾する内容を含むことになるが、そもそも「有効性を確認する」というのは、あらかじめ「何についての有効性であるか」が確定している場合に議論できることである。ところが、精神的な効果をねらったセラピーの場合には、実施後に想定外の変化が見られることがある。その中にはポジティブな場合もあるし、ネガティブな副作用が生じる場合もあるが、いずれにせよ、対象者の日常生活行動をできる限り幅広く把握し、変化も見逃すことの内容に目を配ることがぜひとも必要である。 従来の行動分析的手法では、しばしば、1種類の具体的な行動に対する、1種類の介入の有効性のみに注意が向けられる傾向があった。行動を具体的にとらえることには大いに意義があるとは思うけれど、種々の行動の連関にも目を向けながら生活行動全般をグローバルな視点で捉えた上での「有効性」を検証しなければ意味が無いように思う。 ここで少々脱線するが、先週の土曜日(6/30)、上京時に滞在したホテルでNHKの「ボランティアにっぽん:ジョイと一緒に笑顔を運ぶ」という番組を見た。そこで紹介されていた「アニマルセラピー」の有効性について、上記の議論と関連づけながら考えてみたいと思う。 番組で紹介された「ジョイ」というのは小林美和子さんが飼っている犬の名前である。ジョイは小林さんと一緒に定期的に特別養護老人ホームを訪れ、痴呆症のお年寄りに撫でてもらうなどのセラピーに参加している。 このアニマルセラピーは、「日本動物病院福祉協会」がバックアップしており、施設を訪問する際には、爪を丸くする、シャンプーをかける、獣医師による健康診断などの事前チェックが念入りに行われる。皮膚が弱く感染症にかかりやすいお年寄りのためには必要な措置であろう。 番組によれば、犬や猫を抱いたり撫で回すことは、自分のペットの飼育が禁止され、かつ自由に外出ができないお年寄りにとっては大いに気分転換になるという。また、病院関係者の方は、アニマルセラピーを導入することで「入所者の表情がゆたかになった」と語っていた。 このようなセラピーは、「有効性の検証」という点では甚だ疑わしいところがある。「表情がゆたかになった」という病院関係者の証言も主観的な思いこみによるものかもしれない。では、何らかの有効性が検証されない限り無意味ということになってしまうのだろうか。 私はむしろそこに、「有効性」とは別の「強化力」という観点からのセラピーの意義づけが大切ではないかと思う。特定指標で測られる目先の有効性ばかりを議論するよりも、強化力としての有効性をどう整備し、どう多様化していくかということのほうが遙かに大切ではないかと考えている。次回に続く。 【※7/7追記】 上記のTVのダイジェストがNHKのサイトに紹介されていた。また日本動物病院福祉協会のHPはこちら。サイトを拝見した限りでは「アニマルセラピー」という呼称は使わず、「「人と動物との絆」の理念の普及と、動物介在活動」を掲げておられるように思える。 |
【思ったこと】 _10709(月)[心理]オーストラリア研修(その9)セラピーは目的か、手段か?(その4)有効性の確認を必要とする別の理由 7/6の日記で、「有効性の確認できないセラピーは無意味なのか?」という疑問を提出した。精神面の効果を狙ったセラピーの場合には、その影響は多面的であり、また、集団の平均値ではなく個人単位で検討すべき特徴を備えている。数量評価だけで有効性を一面的に検討することは、それぞれのセラピーの価値を過小評価してしまうことにはならないか、と言いたかったのである。 にも関わらず、現実社会では、有効性の検証が強く求められる場合がある。その理由としては、次の3点が考えられる。
次に、セラピーがある程度社会的に認知された段階では、セラピスト自身のスキルの向上、あるいはセラピーを受ける側に最低基準を保証するという観点から、公的な資格化が求められるようになる。しかし、その場合も、客観的な有効性が確認されていないと行政としては動きづらいところがある。昨年9月27日に行われた園芸療法の講演会でも、「園芸療法士の公的資格化はぜひとも必要だが、有効性を示す証拠が無いと厚生省(当時)を納得させることができない。役人は、証拠さえ持ってくればすぐにでも作りましょうと言っている。」というような発言を聞いたことがあった。 最後に、第3の点だが、新しいセラピーを紹介する時にはしばしば誇大に宣伝されることがある。やや脱線するが、先日、新聞に「風水画」を宣伝した折り込みチラシが入っていた。それによれば、その絵画を購入したあとで宝くじを買ったある主婦は5000万円が当たり、他の家族も全員が当選し、合計1億円もの賞金を手にすることができたという。そのような広告が公正取引上妥当なものかどうかは別に議論すべきであると思うが、いずれにせよ、 この絵画には芸術的な価値があり気持ちが明るくなります。 という宣伝文句よりは この絵画を飾ると風水効果によって運気が上昇し、金儲けや出世に効果があります。 と宣伝したほうが儲かるのは確かであろう(ホンマに効果があるのだったら、そのようなチラシを配って絵画を売る代わりに、社員がみな自分の家に絵を飾り自分で宝くじを購入して大儲けすれば済むはずなんだがなあ)。 上記の例は極端すぎるとしても、一般に、ある種のセラピーを普及する時には、あれやこれやと有効性を羅列するケースが多い。しかし、本当に大切なことは、個々人の生活全般がセラピーを受けることによってどう向上し、どのような価値や生きがいを創出するかという点にある。「公的補助」や「公的資格」、あるいは「宣伝目的」や「付加価値」のために並べ立てられる方便としての「有効性」は、クライアント本位の有効性では断じてない! 次回に続く。 |
【思ったこと】 _10716(月)[心理]オーストラリア研修(その10)セラピーは目的か、手段か?(その5)セラピーとスポーツ 大学改革の話題などを取り上げたため一週間も間が空いてしまったが、引き続いて、セラピーの有効性について考えていきたいと思う。ここでいうセラピーとは、各種の心理療法、理学・作業療法、園芸療法などのほか、温泉を利用した各種民間療法、健康法などをすべて含むものとする。 これまでの連載では
さて、有効性が必ずしも実証されていないのに広く普及している活動の1つにスポーツがある。減量やリハビリなど特別の目的でジョギングや水泳をする人もいるが、一般のスポーツ愛好家は「このスポーツには○○という効能がある」という手段としてスポーツをやっているわけではないだろう。この点について保健体育審議会・2000/08答申「スポーツ振興基本計画の在り方について−豊かなスポーツ環境を目指して− (答申) 」は、スポーツの意義や有効性を次のように論じている[但し、長谷川が要約、箇条書きした]。
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【思ったこと】 _10717(火)[心理]オーストラリア研修(その11)セラピーは目的か、手段か?(その6)「ご自由にどうぞ」と「楽しみ」の起源 5回にわたり、「セラピーは目的か、手段か?」という連載を続けてきた。この話の発端(7/4の日記参照)は、アデレードでレクチャーを受けた「MURRAY WINGプログラム」の中に、ダイバージョナル・セラピーを初め、実に多様なセラピーや諸活動が含まれていたことにあった。その中には、痴呆の進行防止や改善を目的としたセラピーばかりでなく、それ自体が「楽しみ」であり有効性は二の次と思われるものもあった。その場合、セラピーは手段ではない。目に見える効果が無くても、クライアントが楽しんでいればそれで十分。そればかりか、楽しく活動することは、結果的として、不穏状態や問題行動を起こりにくくする効果が期待されるという発想である。 「楽しみが第一」というのは、昨日の日記で取り上げたスポーツ一般にも言えることだ。このほか「温泉療法」も、本格的な湯治を別とすれば「楽しみが第一」と言ってよいのではないかと思う。つまり、数日間温泉宿に泊まったからといって、効能書きどおりの変化が現れるとは思えない。むしろ、温泉でのんびりと過ごすこと自体が目的。結果的にストレス解消につながるかもしれないが、手段として温泉に通うわけでは決してない。 さて、それでは「楽しみが第一」のセラピーの場合、「ご参加はご自由にどうぞ」というように機会だけ提供しておけばそれでよいのだろうか。もし対象が健常な若者たちであるならば「ご参加はご自由にどうぞ」型の機会提供だけで十分であろうと私は思う。しかし、痴呆のお年寄りや障害児の場合には「楽しみ」をサポートするためのスタッフがどうしても必要になってくると思う。 昨年、岡山県内のある老人福祉施設を訪問した時、施設内に将棋板やオセロ、室内ゲーム器具、簡単なアスレチック器具など、いろいろな娯楽用具が用意されているのを見たことがあった。ところが、それらは殆ど活用されていない。お年寄りたちは、ソファに座って談笑をしていたが、娯楽用具には全く興味を示していなかったのである。 行動分析的に言えば、娯楽用具はオペランダムと呼ばれる。用具が無ければそれを必要とする行動が起こらないのは当然である。ではオペランダムさえ用意すればそれで十分なのか? 否である。オペランダムが存在し、それを操作する行動が適切に強化されてこそ「楽しみ」が生まれるのである。高齢者や障害児は、健常な若者に比べると、そのような行動の元々の生起頻度(オペラントレベルの頻度)がきわめて低い。だからこそ、その自発頻度を高め、それらの行動が自然に強化されるレベルまでサポートすることが必要になってくるのである。 今年3月に行われた日本行動分析学会公開講座・「高齢者介護の実践と行動分析学からの提案」に関連して同じような意見を述べたことがあった。講座では「将棋やオセロが好きだということだが入所後は殆ど行っていない。」と報告された部分があったが、 痴呆が進んで対戦が困難になったという可能性もあるが、ひょっとして、「殆ど行っていない」ではなく「将棋やオセロで遊ぶ権利が奪われている」ということではないのか。もしそうだとするなら、入所者のために対戦室を用意するとか、パソコンソフトに、お年寄り用のタッチパネル付き液晶を用意するなどの配慮があってもよいのではないかと思った。というのがそれに対する私の考えである。 以上述べたように、高齢者介護施設では、失われた機能の回復(あるいは改善、低下防止...)の手段としてのセラピーとは別に、能動的な行動が適切に強化されるような随伴性を整備するセラピストが必要となる。今回紹介されたダイバージョナルセラピーは、後者に相当する部分が大きいように思えた。この話題、もう1回だけ続く。 |
【思ったこと】 _10722(日)[心理]オーストラリア研修(その12)セラピーは目的か、手段か?(その7)行動分析はどう関われるか 「セラピーは目的か、手段か?」という連載の最終回。今回は、行動分析学がセラピーの実施にどう関われるのかについて考えてみたい。 すでに何度か指摘したように、ひとくちにセラピーと言っても、治療・改善のための手段として実施されるものと、それに参加すること自体に価値があり目的となりうるものがある。じっさい、オーストラリアで長年にわたり研修を積まれた福井県立大学社会福祉学科の舟木先生のページにも 【DTは】回想法、音楽療法、運動療法、陶芸療法、趣味活動、バス旅行など様々な手法が使われるがいわゆる「治療」という目的で実施されるのではない。個人が自己実現を感じ、自分の価値の向上を目的にプログラムが実施されると紹介されていることから分かるように、今回取り上げているダイバージョナル・セラピーは、どちらかと言えば後者に相当するものと言える。 方法論的にみて、行動分析学は、元来、前者についての検証、つまり、ある介入の有効性を実証することを得意としてきた。では、後者のような「自己実現」や「価値の向上」のためのセラピーにはどのように関わることができるのだろうか。 最も求められると思うのは、7/17の日記でも述べたように、能動的な行動が適切に強化されるような随伴性を整備することではないかと私は思う。
強化の随伴性を整備するということは、結果を人工的に付加することだけではない。スポーツなどでは、ルールを変更することで、行動に内在する結果を変えることも可能だ。 例えば野球において、バッティング練習技術の向上によって、今よりヒットが打ちやすくなったとしよう。もしそうなると、乱打戦によって試合時間が大幅に長くなり、ピッチャーも体力的に持たなくなるおそれがある。その場合、ベース間の距離を長くするとか、ツーストライクで三振にするとか、野手をもう一人増やすというようにルールを改正すれば、試合は円滑に行われ、守る側にも攻める側にも適度の「よかった」が随伴するはずだ。 セラピーの場面で、既存のゲームのルールをクライアントのレベルに合わせて変更する工夫が求められる。例えば、7/4の日記の日記で紹介した中に、スクラブルゲームを実施している場面があった。このゲームがもし難易度が高すぎるのであれば、ある程度ヒントを出すとか、配牌の数を増やすなどのルール改善が必要になる。盤のマス目の数や得点の合算法を変えるなどの工夫もできるだろう。思考時間が長すぎて集団場面に適さない人が居れば、コンピュータを利用した類似ゲームを開発することも考えるべきであろう。このあたりに「強化」と「随伴性」をめぐる行動分析の視点が必ず活かされるものと思っている。 |
【思ったこと】 _10724(火)[心理]オーストラリア研修(その13)「いま」に向かうセラピー 7/22の日記の続き。今回は、ダイバージョナルセラピーの重要な柱の1つである「Reality Orientation」(以下「RO」と略す)について考えてみたいと思う。「RO」は、高齢者が現実世界(時、場所、対人)について軽度の混乱に陥っている時に有効であると言われている。特に施設の場合、集団による画一的で単調な生活が長期間続くと、アイデンティティや現実感が失われがちであり、これを改善するためには人工的な介入が必要になってくる。そういう意味では、「RO」は、この連載の分類に従えば、改善のための「手段としてのセラピー」の1つということになるかと思う。なお、ネットで検索するといろいろなサイトがヒットすることから分かるように、「RO」は必ずしもダイバージョナルセラピー独自の方法ではない点に留意されたい。 「RO」としては実際にどのようなことが行われるのだろうか。今回研修を受けた限りでは、その範囲は実用的な内容に限られているような印象を受けた。つまり、カレンダー、時計、新聞などを材料に、「今日は何日」、「今日は何曜日」と聞いたり、クリスマスや仲間の誕生祝いなどの年中行事について語ったり特別の飾り付けをすることなどが主体であり、必ずしも現実に直面させるような働きかけとは言えないように思えた。 この種の「RO」を実施することにはネガティブな側面もある。それは「今日は何日」といった質問が機械的な応答だけに終わってしまう弊害、また、それに答えられない場合に、本人をガッカリさせたり自尊心を傷つけたりする恐れが出てくるからだ。なお、痴呆が進んで混乱が深刻化した場合には、次回に述べる「VALIDATION」のセラピーに移行することになる。 今回の研修で「RO」の本来の趣旨はよく理解できたが、介入の方法や内容についてはまだまだ改善の余地があるのではないかという印象を受けた。というのは、私自身、日付などはしょっちゅう間違えることがある。夏休みのように授業が無い時期には曜日すら気にとめなくなる。祝日を忘れることも多い。他の人のWeb日記でも、日付を間違えたり、祝日であることに気づかなかったというような記述はけっこう見かけることがある。しかし、そういう人々が、現実に対して混乱を生じているとは言い難い。むしろ忙しい人ほど、誕生日や記念日などに気づかないことのほうが多い。時間や日付、曜日などに無頓着であっても、遙かにリアルな生き方を実現できるように思える。 たまたま研修の休憩時間に、ある日本人が、海辺の近くにある痴呆症介護施設について語っておられた。その施設では、時たま、釣り大会のようなイベントを行うのだという。かつて名人と言われた人も多いのだろう。かなり痴呆が進んだようなお年寄りでも、みな生き生きと釣りをする。その瞬間こそがリアリティではないか。それに比べると、施設内で「今日は何曜日ですか」などと機械的な問答を繰り返すことはまことに空しい気がする。 「いま」に向かうことは、電車の運転手のように正確に時刻を把握する作業とは質的に異なる。この日記で時たま引用させていただいている内山節氏の 『自由論---自然と人間のゆらぎの中で』(1998年、岩波書店、ISBN4-00-023328-9) は、その第五章「時間と自由の関係について」の中で、かつては時計の無い生活があったこと、年をとっても生きることには変わりがないことを述べたあと、時間には「経過する時間」とは別に「いまを生きている」という時間があることを強調しておられた(p.84〜p.85)。「RO」の本当の目的は、この「いまを生きている時間」をどう実現するかというところにあるのではないかと思った。 |
【思ったこと】 _10725(水)[心理]オーストラリア研修(その14)「主観」を活かすセラピー/客観的認識が推奨される2つの理由 昨日の日記で紹介した「Reality Orientation」(以下「RO」と略す)は、高齢者が現実世界に適切に関われるためのセラピーであると言えるが、痴呆が進むと、もはや、現実を正しく認識することが困難になってくる。そのような段階では、誤認識をいちいち訂正させずクライアント自身の判断や主観的経験をそのまま受け入れるほうが望ましい場合が出てくる。じっさい、そのような対応をとることで、クライアントの不適応行動が減少し、薬の使用量が減り、コミュニケーションが増加するなどの好ましい変化が現れるとの研究もあるという。 超高齢者の主観的判断を、真偽にかかわらず受け入れる実用的対応技法は「VALIDATION」と呼ばれる。「RO」と同様、この「VALIDATION」もダイバージョナルセラピー独自の方法ではない。vfvalidation.orgというサイトに本格的な解説があるので、興味のある方はそちらをお読みいただきたい。ちなみに、このサイトのタイトルにRマークが付されているように「VALIDATION」には商標権が設定されている模様。セラピーの分野でこの名称を使う時には注意が必要である。 上記のサイトの中のWhat is Validation?には、「Ten Principles of Validation」という示唆にとむ記述がある。最初の2項は、超高齢者以外のすべての人にあてはまることだろう。 1.All people are unique and should be treated as individuals.ところで、超高齢者の主観的世界は、我々がふだん楽しむフィクションの世界や、昨今話題の仮想現実と同じものなのだろうか? いや、否である。
多くの人々が、自己の主観的な世界をできる限り客観世界に近づけようと努力するのはなぜだろうか。私は次の2つの理由があるからだと思う。
余談だが、研修のさい、私のほうから少々意地悪な質問を出してみた。 痴呆症では、何も盗られていないのに被害を訴える人がおられます。その場合でも、「盗まれた」という主観的判断を認めてやるのですか? それに対する回答は、「そのような訴えがあった場合も、真っ向からは否定しない。とりあえず受け入れ、当人の関心が違う方向に向くように努力する」というものだった。問題行動それ自体を弱化するのではなく、別の方向へと切り替えを促すという発想は、まさに「ダイバージョナル」の元の意味そのものであると思った。 |
【思ったこと】 _10726(木)[心理]オーストラリア研修(その15)「治療手段としてセラピー」と「ポジティブな変化を実現するセラピー」:高齢者福祉におけるセラピーの2つの役割 6/27の日記から12回にわたり、「ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy、以下『DT』と略す)」について思ったことを連載してきた。アデレードでのレクチャーで配布された資料には、これまでに紹介した内容のほか、「REMINISCENCE(「回想療法」)」、「DOLL THERAPY(人形療法)」、「PET THERAPY(ペット療法あるいは動物介在療法)」についての解説があったが、時間の関係で十分な説明を受けることができなかった。これらについては別の機会に考えを述べたいと思う。 さて、今回の研修旅行に関連して、7/27の夜に大阪で報告会とセミナーが予定されており、私自身も10分ほどのスピーチをすることになっている。そこで、このあたりでもういちど、DTおよび高齢者福祉におけるセラピーの役割について、私なりに考えたことをまとめておきたいと思う。 今回の研修に参加して、私自身の中でいちばん見方が変わったのはセラピー(療法)の役割についての考え方である。私はこれまで、セラピーをある種の治療法、社会復帰、精神もしくは身体機能を回復させるための手段として考えてきた。DTにもそうした要素は含まれていたが、そればかりではなかった。じっさい配付資料をみると、 WHAT SHOULD A DIVERSIONAL THERAPY PROGRAM INVOLVE?というように多彩な内容が組み込まれていることが分かる。つまり、失われた部分を回復させたり衰退をくい止めるというセラピーとは異なり、もっとポジティブで前向きの活動を志向しているのである。7/22の日記でも引用したように、DTのこうした特徴は、福井県立大学社会福祉学科の舟木先生のページでも 【DTは】回想法、音楽療法、運動療法、陶芸療法、趣味活動、バス旅行など様々な手法が使われるがいわゆる「治療」という目的で実施されるのではない。個人が自己実現を感じ、自分の価値の向上を目的にプログラムが実施されるとして紹介されている。 セラピーを治療や回復のための手段として捉えるか(便宜上、これを「治療手段としてセラピー」と呼ぶ)、自己実現や価値の向上の活動として捉えるか(便宜上、これを「ポジティブな変化を実現するセラピー」と呼ぶ)によって、有効性の検証方法や代替手段の導入のしかたも大きく変わることになる。この点については7/5や7/6の日記で考察した。要するに、「治療手段としてのセラピー」では、治療効果が検証されなければならない。効果が認められないセラピーは無駄なものとして排除される。現状より有効性の高いセラピーが開発された場合にはそちらへ切り替えられることが求められる。 ところが、「ポジティブな変化を実現するセラピー」の場合には、有効性を検証することは殆ど不可能に近い。そもそも「自己実現」や「価値向上」を集団の平均値の変化で比較すること自体ナンセンスであるし(7/6の日記参照)、その変化をダイレクトに測る客観的指標があるとも思えない。第三者が知りうることは、セラピー(あるいはもう少し要素に分けてとらえた時の個々の介入や機会提供)がクライアントの全般的な活動にどういう変化を及ぼしたかという点だけである。であるとするならば、「ポジティブな変化を実現するセラピー」は、治療効果とは別の次元で評価を行う必要がある。その有用な物差しとなるのが、行動分析で言うところの強化力、それも単に行動を増やす力という意味ではなく、強化の質(行動内在的か付加的か)や生活全体のバランスを考慮した上での強化力ということになるのではないかと思うのだが、この点についてはさらに検討を進めてみたいと思う。 じゅうらい、「治療手段としてのセラピー」に比べると、「ポジティブな変化を実現するセラピー」は、「必要性の低いもの」、「ぜいたくなもの」、「あればそれに越したことは無いが、真っ先に予算削減の対象にすべきもの」として受けとめられてきたところがあるように思う。おそらくこれは、医療保険制度との関連(7/9の日記参照)、あるいは「限られた資源は、治療や回復を必要としている人々に優先的に配分されるべきものである」との社会通念に起因するものと思われる。 こうした考え方は、新しいセラピーを宣伝・普及する際にも反映されている。あるサイトでは ○○療法の対象は広く、身体的・精神的問題を含んだすべての人々が対象ですが、療法である以上、健常人が○○を楽しんで心の満足を得る趣味の行動とは一線を画しています。と説明されていた。この発想は、「○○を楽しんで心の満足を得る趣味の行動」は療法には含まれないという意味にもとれる。じっさい、ネット上で「療法 & 協会」などをキーワードに検索してみると、殆どすべての「療法紹介サイト」において、(真偽はともかく)医療効果が強調されていることがわかる。 確かに、健常なお年寄りが趣味として何かを楽しむ場合には、地域の同好会や生涯学習のための施設がそれをサポートすれば済むことであろう。しかし、介護施設で生活している高齢者の場合には、身体的な衰えや施設上の制約から、自力でそういう心の満足を得ることはできない。こういう状況のもとでは、「ポジティブな変化を実現するセラピー」は「治療手段としてのセラピー」と同じぐらいに大切である。 昨年4月に書いた紀要論文でも述べたが、スキナーは、人間にとって最も大切な権利として、「能動的に働きかけて結果を得る権利」を繰り返し強調している。衣食住の環境がいくら整っても、この権利が尊重されない限り、生きがいは生まれてこない。介護施設のような、制約の多い生活環境の中でそうした権利を最大限に保障するためには、ボランティアによる単発的な慰問では不十分。「ポジティブな変化を実現するセラピー」をシステマティックに実施することがぜひとも求められる。その企画・推進者として、DTは大きな役割を果たすものと期待される。 |
【思ったこと】 _10727(金)[心理]オーストラリア研修(その16)報告会(1)「Diversional therapy」のセミナーで「Web日記セラピー」の宣伝をする/アセスメントはやはり必要 この連載の元となった「オーストラリア高齢者福祉研修旅行」の報告会、およびジョン・バーキル氏の講演会が大阪のホテルで開催された。会には50名を超える介護施設関係者や大学教員が集まり、それぞれの立場からの意見交換が行われた。 やはり、この種の交流は、何が現場に活かせるかという視点が大切である。心理学の理論と言えども現場ではしょせん1つのツールに過ぎない。アデレードの州立高等教育機関「Douglas Mawson Institute of TAFE」を訪れた時に「心理学の教員がおられたら紹介してください」と聞いたら、「私たちの学校は非常にpracticalな教育を行っているので、そのようなスタッフはおりません」と言われたことがあった。心理学者たちが大学の中だけであぐらをかいていて抽象論や一般論に終始していると、そのうち、介護現場から全くお呼びがかからなくなってしまうぞ、何が活かせるのかを積極的にアピールしていく必要があると強く感じた。今回は持ち時間が短かったため、私のスピーチでは7/26の日記の本文部分をコピーしたものをそのまま配布してもらった。スピーチの冒頭では、私自身がこのようなWeb日記を4年以上続けていること、今回のテーマは「Diversional therapy」であるが、「Diary therapy」というのもひょっとしてあるかもという話をした。 「Diary therapy」にはさまざまな利点が考えられるが、問題点として、継続には非常に根気がいること、7g月中旬にYESさんが行った調査を引用しながら「ほぼ4年以上前から執筆を続けているWeb日記はほぼ1割にすぎない」という事例を紹介した。もっとも、短期間でWeb日記を止めてしまった人でも、その期間に心情を吐露したり、読者から励ましを受けたり、配偶者や姑への愚痴を垂れ流してストレスを発散するなど、何かしら役に立った場合もあるにちがいない。執筆の継続性だけで判断されるべきものではないかもしれぬ。私のスピーチでは、次に、セラピーあるいは療法に対して「どういう効果があるの?」という方向に関心が向かいがちであることの問題点を指摘した。神社参拝もそうだが、何でもかんでも御利益を求めて詣でるのはどうかと思う、もっと別の視点が必要なのではないかという問題提起であった。その後の話は、7/26の日記に記した通りである。高齢者福祉においては、「治療手段としてのセラピー」とは別に「ポジティブな変化を実現するセラピー」が大切であること、後者は「手段としての有効性」という観点から評価されるべきものではない点を強調した。 以上の私のスピーチは、少々誤解を生む内容を含んでいたかもしれない。「ポジティブな変化を実現するセラピー」は評価不能であると思われた方がおられたらそれは違う。私が言いたかったのは、「治療手段としてのセラピー」の有効性を検証する方法は必ずしも役に立たないという点であって、それに代わる評価方法の可能性までを否定したわけではなかった。 じっさい、「Diversional therapy(DTと略す)」の資料の中には、 It is extremely important to assess each individual person, in order to determine individual needs. By doing this, a program that includes a variety of activities may be created. Re-assessments may also help to determine when a person's needs have changed, or whether the Diversional Therapy program is effective.として、アセスメントおよびリ・アセスメントが「extremely」に重要である点が強調されており、評価項目の事例も紹介されていた。ここで特に留意しなければならないのは、アセスメントが個人単位で行われる点だ。ある実験で「万能な有効性」が「検証された」から導入するというのではなく、いろいろな介入を個人単位で配合し、定期的にチェックを行っていくのである。 アセスメントの重要性は、後半のバーキル氏の講演の中でも強調された。7/3の日記で少しふれたように、オーストラリアでは高齢者福祉関係の施設に対して定期的に、適格認定(accreditation)が実施されている。もし「不適格」と判定されるとその施設は公的補助を受けられなくなり、たちまち閉鎖に追い込まれることになる。そして、その監査の項目の中には、施設が、入所者個々人の状態について定期的なアセスメントを行っているのかどうか、アセスメントに基づいてどういうプログラムを実施しているのかが含まれており、介護の質が一定水準以上に保たれることが保証されているのである。そういう意味では、アセスメントは、クライアント自身のためばかりでなく、施設の運営を維持するためにも必要な作業になっていると言えよう。 いずれにせよ日本国内でDTを普及させるためには、定期的なアセスメントをどう実施するかがぜひとも必要である。またそういうスタッフを揃えるためには、やはり全国規模の適格認定が公正かつ厳格に定期的に実施される必要がある。でないと、効率化優先の流れの中で、経営上の余計な部分として切り捨てられる恐れがあるからだ。 もっともそうした制度化を待っていたのでは、現利用者に対するセラピーの質は向上しない。次善の策としては、可能な施設からそれらを導入し、「当施設では、設備面の充実に加えて、つぎのような定期アセスメントとDTプログラムをご用意しております」という形で多くの希望者を集め、競争原理の中で向上をはかっていくことが考えられる。もっとも、公的補助の問題もあり、行政に疎い私にはこれ以上のことは分からない。 次回に続く。 |
【思ったこと】 _10728(土)[心理]オーストラリア研修(その17)報告会(2)「最も価値の高い権利」をめぐる共通点/「やってみて、よかった」と感じる喜び 昨日の続き。大阪のホテルで開催されたセミナーの後半では、ジョン・バーキル氏(マソニックホームズ社)の講演が行われた。バーキル氏は、高齢者介護施設の経営の最高責任者であるとともに、ダイバージョナルセラピー(DT)の普及や施設の適格認定(accreditation)にも関与しておられ、政界にも大きな影響力を持っておられるという。アデレードの研修では、そのバーキル氏が自ら車を運転して各施設を案内してくださった。今回は、ご夫婦でアラスカを旅行した帰りに、わざわざこの会のために日程をとってくださった。 バーキル氏は、講演の中で、オーストラリアにおける高齢者福祉の基本精神として 「何かをしてあげる」のではなく「何かをするのを手伝う」ことの意義を述べられた。介護スタッフの側からみても、入所者(あるいは利用者)の椅子を動かしてあげたほうが、彼らが自分で動かすのを手伝うよりはよっぽど手間が省ける。しかし、そういう過度のサービスは、当人の選択の権利を奪い、尊厳を失わせるものであるという。マソニックホームズの施設はスタッフの仕事場ではない、入所者(利用者)の生活しているところにスタッフが訪問する場である、と強調しておられた。 この言葉を聞いた時、スキナーの講演録の一節を思い出した。スキナーは、「The non-punitive society. Commemorative lecture.」(Skinner, 1979、Keio University, September 25. 、「罰なき社会」という佐藤方哉氏の邦訳付きで『三田評論』8・9月合併号に掲載され、『行動分析学研究』1990年第5巻、87-106.に転載)の中で、 What are the rights of a prisoner, for example? A person who has been incarcerated and then given the things he needs to survive is being denied a very basic right. He is being destroyed as a person by having his reinforcing contingencies stripped away. The same thing happens to those on welfare. A humane society will, of course, help those who need help and cannot help themselves, but it is a great mistake to help those who can help themselves. Psychotic or retarded people who in essence earn their own living would be happier and more dignified than those who receive their living free and are then treated punitively because in the absence of reinforcing consequences they behave badly. Those who claim to be defending human rights are overlooking the greatest right of all: the right to reinforcement. (アンダーラインは長谷川による)として、本人ができることまで手伝ってしまうことは、最も価値の高い権利:「能動的に行動し、強化を受ける権利」を奪うことになると指摘していた。バーキル氏、あるいはオーストラリアの福祉関係者がスキナーをどう評価しているのか(あるいは、そもそも、スキナーの思想にふれる機会がないのか)よく分からないが、結果的に同じ考えに行き着いたという点は興味深い。 少々脱線するが、私自身が、この「能動的に行動し、強化を受ける権利」の大切さを知ったのは、スキナーの来日より数年前、佐藤方哉先生の『行動理論への招待』(大修館書店、1976年)を通じてであった。卒論研究でハトのオペラント条件づけの実験を行った私は、すでに学部時代に実験的行動分析の基本部分は習得していたが、それが、人間の生き方にどういう視点を与えるかについては、それまでは殆ど考えたことがなかった。行動分析が人間行動の理解に役立つということは分かっていても、それが生きがいにどう結びつくのかは別の問題であると思っていたのである。『行動理論への招待』の第15章(p.246〜247)で佐藤氏は、次のように書いておられる。ちなみにここでいう「オペラント行動」は、個体が自発する行動(外界に能動的に働きかける行動)のことであり、パヴロフの実験反射で確認されたようなレスポンデント行動(刺激の提示・出現によって受身的に誘発される行動)と明確に区別するためにスキナーが命名した概念のことである。 .....したがって、オペラント行動の直後には、必ず何らかの環境の変化、すなわち手ごたえなしでは、そのオペラント行動は強化されないのです。現代の最大の危機は、実はここにあるのではないかというのが、近頃もっている僕の感想なのです。人間を人間たらしめたオペラント行動に、今日ほど環境の側からの手ごたえの乏しかったことはかつてなかったことでしょう。子供が物心のついた頃には、もう環境にテレビがあります。このテレビはレスポンデント行動の誘発刺激にはなりえても、子供のオペラント行動に対して、手ごたえを与えてはくれません。子供はオペラントのむなしさを条件づけられてしまいます。近頃の学童用の勉強机を考えてみて下さい。時計はあります。ラジオつきのさえもあります。電動鉛筆けずり機は、ただ目盛を設定して、鉛筆を突っ込むだけで、ほどよくけずれ、けずりすぎ防止装置もついています。そこには、ほとんどオペラントといえるオペラントは存在しないのです。勉強の前に鉛筆一本一本を心をこめてけずるということは、精神主義者の立場とは全く異なる〈実験的行動分析〉の立場からも実に大切なことなのです。こういった小さなことの積み重ねが、大きくなって、どんな職業についたとしても、そこに<生きがい>を見い出すことのできる基礎になっていたのだと思うのです。.....【中略】.....〈生きがい〉とか〈思いやり〉とか〈美を愛でる心〉とか〈愛〉とか、そのほかの人間にとって大切なもろもろのものは、オペラントに対する手ごたえからつちかわれたものなのです。このようにして「人間味」を失なっていった現代人は、「仲間集団」を失ない、その結果、多くのオペラント行動が、物ばかりではなく、人によっても強化されない、心理的に砂漠のような環境に一人ポッチで住むことになってしまった。この本が書かれたのは今からちょうど四半世紀前のことであった。当時想定されていなかった大きな変化として、TVゲームの登場があった。TVゲームは、コントローラーの操作に対して、「モンスターをやっつける」、「新しいダンジョンに進む」といった結果が確実に随伴するような人工的空間である。仮想とはいえ、その世界の中だけで行動する限りにおいては、確実に「手ごたえ」が与えられる。夢中になるのは当然であろう。このほか、一時流行した「たまごっち」も、「育成行動」に結果が伴うからこそ夢中になれるのだ(もっともTVゲームは最高の生きがいにはなりえない。2000年10月11日の日記参照)。 以上、かなり脱線しながら「最も価値の高い権利」として「能動的に行動し、強化を受ける権利」のことを書いてきたが、オーストラリアでは1987年の「ナーシングホーム入居者の権利憲章」の中で、“自由と公平な待遇を受ける権利”が明確に保障されているという。芹沢隆子氏は、『 OTジャーナル』の「海外に学ぶ 3.オーストラリアの痴呆症ケア」(2000年, 34, 603-606.)の中で、20数項目の“権利”の中に、「危険を受容する権利」があると指摘しておられるが、けっきょくのところ、権利というのは、「オペラント行動を自発する機会の保障」という意味にもとれる。あるいは、権利の過度の強調を好まない日本的な発想に沿うならば、“「やってみて、よかった」と感じる喜び”を大事にしよう言い換えてもよいのではないかと思う。次回に続く。 |
【思ったこと】 _10729(日)[心理]_10729オーストラリア研修(その18)報告会(3)「Q & A」形式によるまとめ/日本型の工夫が必要 昨日の日記の続き。7/27に大阪で行われた報告会をふまえて、ダイバージョナルセラピー(DT)について私が知り得たこと、考えたことを「Q & A」形式でまとめてみた。念のためおことわりしておくが、これはあくまで私個人の考えのまとめであってDT協会の公認の見解ではない。「ホンモノのDT」についての情報はDTに関するリンク集などを参照されたい。なお、このQ & Aは随時改訂版を出す予定。
いっぽう、アセスメントを行う際には、単純な医療効果ばかりに目を向けるのではなく、クライアントの能動性や活動性がどう高まり、興味がどれだけ広まったり深まったりするのかという点を生活全般のバランスに配慮しながら評価していく姿勢が必要である。医療効果は、あればそれに越したことないが、それが無いからヤメテしまえというものでもあるまい。 医療効果に関して1つだけ補足しておくが、アニマルセラピーの解説サイトの中に 心疾患で入院し、退院した人をペットの飼育の有無に分けてみると飼育者の方が1年後の生存率が高かった。というように、医療効果を強調する記述があった。この場合、アニマルセラピーは、本人を楽しませるばかりでなく、生存率を高める働きがあるという点で一石二鳥の効果が期待されているわけだが、では、もし、別の研究で、動物を飼育している者のほうが生存率が有意に低くなった場合はどうするのだろうか。私は、仮にそういうマイナスの結果が確認されたとしても、本人が動物の飼育を望んでいる限りはそれを続けるべきであろうと思う。同じことは、生きがい療法の中で、癌をわずらった人が山登りに挑戦するケースでも言える。山登りに参加することについて ガンの再発率が低く抑えられたり、生存率が大幅に高くなったり、治療効果が促進されたりという医学効果が確認されているということであれば一石二鳥であろうが、万が一、逆に体力消耗などで治癒力が低められたとしても、本人がそれを望むなら引きとめることはできないと思う。この2つの例を含め、特に高齢者福祉の現場では、狭義の医療効果だけでセラピー実施の可否を判断してしまうことは非常に危険であると思う。 もう1つ、DTを日本で普及させるためには、オーストラリアで行われている技法を直輸入したのではダメ。日本の文化や自然環境に合わせた工夫が求められると思う。例えば、6/29の日記で紹介した「SENSORY GARDEN」と「MULTI-SENSORY ROOM」などは、もっと日本型の要素を取り入れる可能性があると思う。これは園芸療法などでも同様。少し前の新聞記事(朝日新聞2001年7月18日、eメール時評)でノンフィクション作家の最相葉月が「伝統園芸植物の危機」というエッセイを書いておられた。日本には、色変わりや模様の突然変異を楽しむ伝統園芸文化があるのだが、昨今のガーデニングブームではもっぱら外国で品種改良された草花ばかりが用いられている。そのほか、もっと根本的に、介護施設自体をなぜもっと日本風にできないのか、畳や床の間を活かした和風建築ではなぜいけないのかという点も考えていく必要があると思う。 ダイバージョナルセラピー研修報告についての連載は、今回でいちおう最終回としたい。オーストラリアで気づいたその他の点(大学環境、住宅環境、施設の適格認定など)については、引き続き、ボチボチと取り上げていきたいと思っている。 |