じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 専用バスで移動している最中に利用したトイレは殆どが有料トイレだった。また殆どのトイレ(男性大便用)には、写真上のように、水を溜めたバケツ、柄杓、トイレットペーパーを捨てるゴミ箱の3点が用意されており、使用後は柄杓で水を汲んで流すようになっていた。

 有料トイレの料金は最低が2000ルピア。最高はイジェン山の火口壁頂上で5000ルピアとなっていた。日本円では22円〜57円となる。

 なお写真下のインドネシア語の看板をGoogleレンズで翻訳したもらったところ以下のようになった。
BUANG AIR - 2000:「排泄(用を足す)」を意味し、料金は2000ルピアです。
MANDI - 5000:「入浴」を意味し、料金は5000ルピアです。
翻訳では「入浴」となっていたが、おそらく冷水の簡易シャワーではないかと思われる。

2025年06月30日(月)



【小さな話題】2025年6月の「じぶん更新」を点検する 「インドネシア」、「わいせつ表現と同音異義語」、「AIとぬくもり」、「さだまさしの血液型喧伝歌」、「言葉は使われないと存在しない」

 月単位で「じぶん更新」状況を点検する、という月末恒例の企画。

 6月でいつもと違った出来事と言えば、6月13日から20日までインドネシアのジャワ島とバリ島のジオウォークに参加したことである。先月のカナリア諸島に続いて2か月連続で海外に出かけた理由は以下の通り。
  • 加齢による体力の衰えからみて、来年以降に同じツアーに参加できるかどうか自信が無い。
  • この時期は乾期であること。
  • ジオウォークは地学マニアには人気があるが、年齢、健康状態、仕事、旅行資金などの参加できる条件を整えられる人は限られているため、来年以降に催行される見込みが少ない。
  • カナリア諸島でエキウムの花を見るためには5月中が必須。いっぽうインドネシア・ジオウォークのほうも日程が6月13日発の1本になっていたため結果的に2か月連続となってしまった。

 なお、インドネシアのブロモ山とイジェン山だけを巡る6日間の弾丸ツアー?が別にあり、こちらのほうが10万2000円ほど安い設定となっていた。しかし、天候不良などでその2座のうち1座でも登山中止になれば落胆の度合いは計り知れない。ということで2座以外にムラピ山、泥火山、カルスト地形、バリ島を巡る8日間のツアーに切り替えた次第だが、その後聞いたところでは6月22日発のツアーは大雨でイジェン山の火口底まで下れなかった(青い炎を見られなかった)とのことで参加者の方々にとってはまことにお気の毒であったいっぽう、私のほうの選択はまことにラッキーだったと言うことができる。

 以下、2025年6月のWeb日記の振り返りを記す。
  • なぜ鉄は安定?/核融合の「パラドックス」
     金属原子の中でなぜ鉄が多く金は少ないのか、またなぜ核融合の導火線として核分裂などの莫大なエネルギーが必要なのかということが、ある程度理解できた。


  • 楽天ブログの執筆内容が「わいせつ」「公序良俗に反する」と判定された原因はインカ帝国にあった
     これには驚いた。YouTube動画の中では、このほか、アニメの1シーンや各国の国歌を逆再生するととんでもない日本語が出現するという実例を示したものがある。日本語は原則として「子音A+母音A+子音B+母音B+子音C+母音C...」という構成になっているので逆再生すれば、「子音C+母音B+子音B+母音A+...」というように別の日本語の言葉に置き換わりやすい性質があるためだろう。


  • 高齢社会における『ぬくもり』(その1):AIはどう考えているか?
    「ぬくもり論」についてAIが賛意を示してくれたこと、またAIがどんなに優しい言葉を生成しても「ぬくもり」を与えることはできないことが確認できた。なお、男女間の「ぬくもり」は性的表現と分離できないところがあるため、今後の考察内容は非公開にせざるを得ない。


  • さだまさしの血液型ステレオタイプ喧伝歌
     放送で、さだまさしさんは「目が点になる」を広めた歌手として紹介されたが、歌詞の中に血液型ステレオタイプを喧伝する文言が含まれていたことはこれまで知らなかった。もっとも、タイトルに「恋愛症候群」という言葉が入った歌はいくつか発表されており、さだまさしさんの歌は全体として見れば血液型性格判断を推進するものでもないことから、1つの歌の歌詞の一部だけを取り上げて批判するほどのことは無いかもしれない。


  • 言葉は使われないと存在しない
     放送では、
    寝る時に見る「夢」は脳の中に起こる現象であって、「将来の希望」というような意味での「夢」とは本来別物である。にもかかわらず「将来の夢」という言語表現が定着したのはなぜか?
    について、「階級社会が終わって未来を選べる時代になったから。」が正解であると説明された。
     しかし、未来を選べない時代であっても、大金持ちになれたらいいなあ、とか地獄ではなく極楽浄土を目ざす、というように将来の自分を仮想することはできたはずだ。但し、それらは自分の努力では達成できないため、日本人の感覚としては「将来の夢」ではなく「願いごと」という言葉で表現される。そういう意味では、「将来の夢」という言語表現は、自分の努力で達成できる(可能性がある)時代になってから広まったと考えてもおかしくはない。じっさい、
    • 「将来の夢はケーキ屋さんになること」←「ケーキ屋さんになれますように」と願いごとするものではない。
    • 「宝くじ1等賞が当たるように神仏に祈る(願いごとをする)←「将来の夢は宝くじに当選すること」とは言わない。
    • 願いごとは最終目的ではなく、通過点での困難に対しても行われることがある←「将来の夢は医者になること」であって「将来の夢は医学部に合格すること」ではない。いっぽう願いごとは「医学部合格」に焦点があてられる。

     このほか、以前にも指摘したことがあるが、何かの言葉がどの時代でどのように使われていたのかは古文書に頼るほかはない。しかし古文書に記されている言葉は上流社会でのやりとりに限られており、一般庶民で同じような言葉が話されていたのかどうかは分からない。上掲の「○ンコ」というような大っぴらに語れない言葉は古文書には記録されない。つまり、ある言葉が古文書に全く記されていなかったからといって当時の人たちがその言葉を使っていなかったと証拠づけるわけにはいかない。【もっとも古事記に「吾が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はざるところに刺し塞ぎて国土生みなさむと思ふはいかに。」という表現があるように、昔の人々は今より大らかに性的描写をしていた可能性もある】