じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
毎年、センター試験の前日になると、出身高校の後輩を励ますメッセージを書き込ん「垂れ幕」が大学構内の各所に吊される(1999年1月15日の日記や2002年1月19日の日記参照)。
この垂れ幕(「吊るしビラ」と言ったほうが妥当か)と非常によく似た光景はチベットでも見られる。写真右は、標高約5000mのミ・ラ(峠)に吊り下げられたタルチョ。この写真(説明はこちら)や、この写真(説明はこちら)に見られるように、宗派によっては白一色となることもある。 |
【思ったこと】 _50114(金)[心理]「傾向がある」ことへの対策(その3)真実はいつ分かるか? 少し間が空いてしまったが、1月11日の日記の続き。 前回記したように、「5%水準で有意な差があった(p<.05)という時のp値というのは、 ●帰無仮説が真のもとでの“観測値の出現率”を計算しているにすぎない。 例えば、あるサイコロがイカサマであると疑いをかけられた。実際にそれを600回振ったところ、5%水準で有意な偏りがあることが分かったとしよう。この場合の5%というのは、 ●そのサイコロがイカサマでなかったと仮定した場合、それを600回振って同じ程度以上に偏りが生じる確率は5%未満である。 ということを意味しているのである。つまり、その検定結果だけからは、サイコロがイカサマであったと断定することはできない。しかし、安いサイコロがいくつもあり、かつ、公平なくじ引きの手段としてサイコロを使うという場面では、わざわざ灰色のサイコロを使い続ける合理的な理由は見当たらない。直ちに別のサイコロに取り替えることになる。但し、この取り替えは、「当該のサイコロがイカサマであるのは真実であった」という理由に基づくものではない。取り替えに伴うメリット、デメリット、リスク、コストなどを総合的に判断して、最善の選択をしたにすぎない。 では、サイコロがイカサマであったということは永遠に証明できないのだろうか。サイコロをさらに600回、あるいは6000回、60000回、600000回、というように何度も何度も振り続けていけば、イカサマであるとの証拠の確からしさを高めることにはなるだろうが、絶対的に正しいとは言えない。経験科学とはそういうものである。 もっとも、真実かどうかは別の形で明らかにされる場合がある。例えば、そのサイコロを作った人が「それはイカサマです。私が細工しました」と自白し、細工と実際に振った時の偏りとの間に十分な因果関係が認められた場合には、「このサイコロはイカサマである」と断定できる。その場合でもなお、自白の信憑性など推理小説モドキの疑いが残る場合はあるが、とりあえず、ある状況・文脈の中では「真実」である断定して差し支えない。 統計的検定というより推定の話になってしまうが、出口調査から当選者を予測するという場合も、その予測が当たっていたかどうかは、最終的な開票結果が判明した段階で明らかとなる。但しここで留意すべきことは、予測はあくまで予測であって、当たることもあれば外れることもある。予測手法の精度を高めることはできるが、たまたま予測が外れたからといって手法自体に欠陥があったということにはならない。 このほか、統計調査はしばしば、未知の原因、未知のリスクを探索する手段としても活用されている。例えばある地域における癌の発生率が、他地域より有意に多いことが明らかにされたとしよう。その後の調査で、その地域の土壌から発癌物質が大量に発見された時には、真実が明らかにされたと結論づけることができる。 ということで、不定期ながら次回に続く。 |