【連載】チコちゃんに叱られる! 「ウィキペディアの放送リストいつのまにか復活」「ハチはなぜハチ公」/ハチ公は本当に忠犬だったのか?
11月1日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。なお、この時間帯、岡山では別番組が放送されており、代わりにNHKプラスで視聴した。
本題に入る前に、先週の放送のあと、ウィキペディアの当該記事で、いつのまにか、放送リストが復活していることに気づいた。
2021年5月3日の日記で取り上げたように、チコちゃんの放送リスト掲載をめぐっては当時活発な議論があり削除合戦が行われており、その後長期間にわたり削除状態が続いたため閲覧もしていなかった。
当時の日記に記したように、削除派の主張は、ウィキペディアの
- 一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」や「ラジオで聴いた」など)、または編集上の監督を欠く情報源です。
- 「番組で見た」内容をそのまま記すことは検証可能性を満たしません。第三者の言及があるもののみ書いてください。
という編集方針を厳格に適用すべきだということであったが、それを言うと、テレビ番組の殆どで放送リストが掲載できないことになってしまう。しかし閲覧者にとっての有用性という観点から言えば、取り上げた話題や出演者程度は掲載すべきであると思っていた。「番組で見た」だけでは検証可能性を満たさないというが、見たか見ていなかったかは録画再生をすれば直ちに確認できる。少なくともどこか1か所に録画が保存されていれば、誤情報は常に訂正できる状態にあるはずだ。今後もチコちゃんの放送リストは削除しないでもらいたい。
ということで本題に戻るが、この日は
- ハチをハチ公と呼ぶのはなぜ?
- ひきわり納豆がひき割られているのはなぜ?
- マヨネーズってなに?
という3つの話題が取り上げられた。本日はこのうちの1.について考察する。
放送では、ハチを「ハチ公」と呼ぶのは、「新聞記者がハチの忠犬ぶりに感動して呼び捨てにできなかったから。」であると説明された。
長年、忠犬ハチ公の研究をしている松井圭太さん(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館学芸員)&ナレーションによる解説は以下の通り【要約・改変あり】。
- ハチ公の本当の名前は『ハチ』。「公」は、身分が高い・尊敬する人に対してつける言葉。時代劇などでも「武田信玄公」、「徳川家康公」、「織田信長公」というように「公」をつけて呼ばれることがある。
- ハチに「公」がつくようになったのは1932年に発行された新聞記事がもとになっていると思われる。
- ハチは1923年11月に秋田犬大館市で誕生。
- 生後50日を迎える頃、上野英三郎博士(東京帝国大学)の家に引き取られた。放送ではハチが上野家に引き取られた頃の子犬の時の写真が紹介された。
- ハチという名前は上野先生の妻、八重子さんが名づけた【→八重子さんの「八」かどうかは不明】
- ハチは生まれながら胃腸が弱く、上野先生は自分のベッドに寝かせて、熱を出した時には夜通し看病したこともあったという。
- その後ハチは上野先生の送り迎えをするようになった。上野先生は日本の農業土木学の権威であり技術指導のため全国を飛び回っていた。その出張の際に渋谷駅を利用していた。
- 当時上野先生の家は渋谷駅の南西、徒歩5分ほどのところにあり、ハチは朝夕上野先生の送り迎えをするようになった。
- しかし、一緒に暮らし始めてわずか1年4か月で、上野先生は仕事中に突然倒れ、帰らぬ人になってしまった。
- 上野先生が亡くなったことで、八重子夫人とハチは住み慣れた渋谷を離れ、最終的には渋谷から5km離れた世田谷に引っ越した。するとハチは世田谷から渋谷駅まで何度も通うようになった。
- そこで八重子さんは、渋谷駅に通いやすいように渋谷に住む知人の小林菊三郎さんにハチを預けた。
- その後10年間、ハチは渋谷駅で上野先生を待ち続けた。
- 5年が過ぎた頃、ハチのことが新聞で取り上げられた。記事の見出しは『いとしや老犬物語』、サブタイトルは『今は世になき主人の帰りを待ち兼ねる七年間」となっており、その記事の中で『ハチ公』という呼称が使われていた。これが『ハチ公』と書かれた最初の記事であった。
- この記事がきっかけで『ハチ公』の呼び名が全国に広まった。
- 新聞記事で『ハチ』ではなく『ハチ公』と呼ばれていたのは、記事を書いた新聞記者がハチの忠犬ぶりに感動したからだと思われる。記者はハチについて色々調べているうちに、亡き主人を待ち続けるハチの姿に心を打たれ、ハチを呼び捨てにするのではなく、尊敬を意味する「公」の字をつけて『ハチ公』と呼んだ。
- この記事は大きな反響を呼び、ハチ公を一目見ようと渋谷駅には多くの人がかけつけ、ハチは一躍人気者になった。
- この美談を後世に残そうと、1934年、ハチが11歳の時に銅像が完成。そこには『忠犬ハチ公』の名前が刻まれた。
- 銅像の除幕式を記録した映像が数年前に発見された。放送では、除幕式の日に渋谷駅のホームで上野先生の帰りを待つ動画が紹介された。動画はNHKの最新技術でカラー化されていた。
ここからは私の感想・考察になるが、ハチ公の話題はこのWeb日記でも何度か取り上げたことがあった。ざっと検索すると、
などがヒットした。
このうち、忠犬ハチ公は単に渋谷駅周辺をうろついていただけ?に引用したように、ハチが本当に『忠犬』であったのかどうかについてはいろいろな異説があるようだ【ウィキペディアの「
美談への異説と反論』参照】。
私がこれまで疑問に思っていたのは、上野英三郎のような東京帝国大学教授が、専用の送迎車やタクシーではなく、サラリーマンのように毎日渋谷駅を利用してどこに通勤していたのだろうかという点にあった。しかも、こちらの沿革によれば、
...帝国大学に農学の分科大学として設置された帝国大学農科大学は、1897年(明治30年)に東京帝国大学農科大学となり、さらに1919年(大正8年)には東京帝国大学農学部となった。
農学部は駒場農学校以来、駒場の地に所在していたが、関東大震災後の1931年(昭和6年)に第一高等学校と東京帝国大学との敷地交換が決定し、1935年(昭和10年)に農学部は本郷(現在の弥生キャンパス)に移転した。
となっており、上野英三郎先生が亡くなった1925年には、まだ駒場に勤務先があったはずだ。放送では「上野先生は日本の農業土木学の権威であり技術指導のため全国を飛び回っていた。その出張の際に渋谷駅を利用していた。」と説明されていたが、そんなに毎日渋谷駅を利用していたわけではあるまい。
となると、ハチ公が渋谷駅周辺で長時間を過ごすようになったのは、上野先生の出迎えではなく、駅周辺の関係者や見物者たちがエサを与えたり可愛がったりしてくれたことにより、自分の住み処であると勘違いしたためではないかという可能性が高いように思われる。
ま、世の中には、フィクションであることを承知の上で美談として残しておいたほうが人々に感動を与えるストーリーもあり、目くじらたてて真相の徹底検証を求めるまでもない場合もあるだろうが。
余談だが、ハチ公の墓は青山霊園の上野英三郎先生の墓の区画内にあるという。但し、剥製は国立科学博物館上野本館の日本館2階北翼に展示されており、また臓器標本は、東京大学農学資料館(弥生キャンパス農正門入ってすぐ右)に展示。骨格標本は1945年5月25日の東京大空襲(山の手大空襲)によって焼失したという【ウィキペディアによる】。
次回に続く。
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