謹賀新年

じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 玄関先に設置した自家製の門松。品種は『大王松(ダイオウショウ)』と思われる。長年バルコニーの隅で育てているが、そもそもいつ頃どのような経緯で入手したのかは記録が無い。正月のこの時期だけ主役に抜擢され、正月が終わると再びバルコニーの隅で定住する。水やり以外には何も世話をしていないが、それでも年々背が高くなっている。

2025年01月01日(水)




【小さな話題】新年の所感/過去10年の「新年の抱負」を振り返る

 2025年の元日は朝5時ちょうどに起床した。毎年、1月1日の朝【=元旦】はWeb日記に新年の所感を述べることにしているが、最近は物忘れがひどくなり、決意とか目標のようなものを掲げても、その年の半ば頃には何を書いたのかすっかり忘れてしまうようになった。
 ということで今回はまず、過去10年間を振り返り、元日に記した特徴的な記述を抜粋してみた。なお、過去日記を振り返る企画は2021年1月1日にも行っておりこの時は過去20年分を取り上げていた。今回は範囲を過去10年に縮小し、行動の指針、QOL、終活、QOD(Quality of Dying)などに関する記述を中心に抜粋してみる。
  • 2015年1月1日
    • 昨年の元日に記したこれからの人生は、活動の束モデルで という考え方を特に修正するつもりはなく、要するに、
      • 現在継続中の複数の「活動の束」の進捗状況を点検し、今後1年間の見通しを立て、実行する
      • 継続が困難、もしくは意義が認められなくなった「活動の束」については早々に打ち切る
      • 必要に応じて新たな「活動の束」があれば開始する
      という方針に基づいて粛々と実践を続けるだけである。とはいえ、活動の束の開始/終了時期はマチマチであるため、1月1日というのが特別の意味をもつわけではない。
    • 「活動の束」型の人生というのは、基本的には、「生涯を賭ける」、「人生を捧げる」、「全身全霊を捧げる」、「命を捧げる」、「身命を投げ打つ」などの一本道人生とは対極をなす生き方である。
  • 2016年1月1日
    • 「これからの人生は、活動の束モデルで」という考え方については特に修正する必要は感じていないが、ひとくちに「活動」といってもいくつかのタイプがあり、それをどう組み合わせていくかという点については、定期的な点検整備を行っていく必要があるだろう。
      • 新たな体験・発見につながる活動
      • 刹那的な楽しみ
      • 社会的貢献
      • ごく普通の、当たり前の日常生活を続けていく活動
    • 歳をとるにつれて、「普通の生活」を続けていくことの価値を実感するようになった。両眼複視を患ったあとでは「物が1つに見えることのすばらしさ」を実感したし、先月のめまいと吐き気発症から回復した時には、「大地が揺れないことのすばらしさ」を実感した。上記に挙げたような種々の活動が遂行困難になったとき、最後に残る楽しみは、この活動となるであろう。
  • 2017年1月1日
    • 定年退職まではとうとうあと1年3ヶ月となり、期限内にできることがさらに限られてきた。実質的には2017年が現役最後の年となり、2018年1月からは、書籍や書類の整理と廃棄に追われることになると思う。
  • 2018年1月1日
    • 2018年、いよいよ定年退職の年となった。
    • 新年の抱負というほどの大きな決意ではないが、これから先の人生は、世間とは一定の距離を置きつつ、可能な限り、世間に頼らない生き方を目ざしていきたいとは思っている。世間に対する基本姿勢は、「世間とは、それほど暖かいものではないし、それほど冷たいものでもない」ということである。よく、「世間は私のために何もしてくれない」とか、人間不信とかを口にする人がいるが、そういう考えは、世間に過剰に期待しているから生じるものである。そういうことを期待しなければ、不信をいだくわけがない。といって、世間は敵でもない。自分をとりまくローカルな環境の中で、ある程度は貢献し、相手を敬う気持ちで接していく限りにおいては、いろいろとお世話になることもあるはずで、せっかく手を差しのべてもらった時には、それを素直に受け入れればよいかとは思う。
    • それなりに暮らしていくためには、健康面でも経済力でも、ある程度、強さを保つ必要がある。といっても、加齢にともなる衰えや、いくら努力しても防ぎきれない病気に逆らうことはできないので、相応に振る舞うほかはあるまいと思う。そういう意味では、できることは先延ばしせず、着実に実行しておくことも大切。
  • 2019年1月1日
    • 隠居生活に入って時間がたっぷりあるように見えても、その中でできることはきわめて限られているという点である。
    • 現役時代は、そのうちヒマができたらやろうと思っていたことは全部、退職後に先延ばししていたが、隠居人となった今、これ以上延ばすことのできる時期はない。あるとすれば「死ぬまでにはやっておこう」という人生最後の締め切りのみである。
    • 今年1年は、「できるうちにやっておこう」という駆け込み型の活動を増やしつつも、無理をせず価値との接触を続け、それができなくなる時期がやってきたときは、その症状の内容に合わせて最善の対応をとりながらSOCに徹する覚悟である。
  • 2020年1月1日
    • アンチエイジング的なトレーニングに時間をかけたいとは思わない。そういう手段的な行動のために自分の時間が奪われてしまうのは本末転倒である。上記のウォーキングも、いろいろな自然に接することができるからこそ継続しているのであって、屋内のマシンで歩いたり走ったりするのであれば同じ時間でも全くムダであるように感じる。要するに、「時間の無駄」と感じない範囲で、健康寿命延伸のための最低限の努力はするが、それ自体が目的化してしまったのでは何のための人生なのか(長生きするために努力するだけの人生なのか)分からなくなってしまう。
    • じぶんというのは別段、この人類の中で特別の存在でも何でもない、地球上の生命体の1つに過ぎないということである。「じぶん」というのは視点の取り方から生じる特殊な感情であってそれ以上でもそれ以下でもない。また、「じぶん」が唯一無二の固有の存在であるように見えるのは、生まれてからのヒストリーがそうなっているからにすぎない【であるから、「じぶん」もすべての他者も、唯一無二で固有の存在であるという点ではその程度に違いは無い】。
    • もっとも、じぶんが地球上の生命体の1つに過ぎないからといって、ちっぽけで取るに足らない存在であることにはならない。きわめて自己満足的になるが、人生を振り返ってみて「それなりに頑張ってきた」と感じられれそれでよし。死神とかくれんぼして、死神から「もういいかい?」と言われた時に「もういいよ」と返事できる程度の充足感があれば、生に執着することも無かろうと思う。
    • この自己満足的な充足感を得るためには、あまり欲張らないことが肝要だ。若者にとっては大きな夢をいだくことは大切だろうが、私のような隠居人は、欲張れば欲張るほど未達成ばかりになって、「あの望みは叶えたかった」という残念の海に溺れながら死んでいくことになる。
    • ではどうすればよいか。1つは、衰えの程度に合わせて、興味対象を減らしていくということだ。そういう意味では「補償を伴う選択的最適化(selective optimization with compensation=SOC)」という発想は大切かと思う。
    • 「いま、ここ」を生きることも大切だが、高齢者の場合は、過去の良き思い出に浸る機会や、(身体的に困難があっても参加できるような)バーチャルな世界で新たな体験を重ねる機会があってもよいのではないかと思う。昨年はずいぶんいろいろなところを旅行したが、今年は、旅行資金が枯渇してきたこともあり、少しずつバーチャル空間(最新のテクノロジーはもちろん、小説や映画なども含む)に関心を向けていこうかと思っている。
  • 2021年1月1日
    • この年は、過去20年の「新年の抱負・所感」を振り返った。
    • 「じぶんは寄生虫論」というのは、単に、自分自身の精神活動と肉体との関係を示したメタファーであって、二元論やホムンクルスとは全く違う。政府を「じぶん」、国民を「自分の肉体」に喩えるならば、どんなに強い政府であっても国民の全生活を支配することはできない。それと同じように、「じぶん」なるものは、自分の肉体のすべてを支配するほど強大ではない。体の片隅に潜む寄生虫程度のそんざいに過ぎないというのが、このメタファーで言いたいところである。もっとも、寄生虫と言っても、駆除されてしまっては体は成り立たない。ま、生命活動を支える腸内細菌と同じようなものと言ったほうがよいかもしれない。
    • 2014年頃に書いた「人生は活動の束」論は今でも撤回していないが、当時はまだ、加齢に伴う衰えや病気について深く考えたことはなかった。最近は、記憶力、髪の毛、視力、歯ぐき、体力、足腰など、肉体のさまざまな面で衰えが出てきており、また、いつなんどき、病気に罹ってしまうか分からない状況にある。そういう中にあって、じぶんというものをできる限り小さな存在として位置づけようというのが「じぶんは寄生虫論」の趣旨でもある。
    • 「じぶん寄生虫論」については2020年12月28日の日記参照。要点としては、
      • 「じぶんは寄生虫」論は、二元論とは異なる。二元論は「モノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方」であるが、寄生虫論は、ココロを寄生虫のように、身体に依存して生きながらえるものと考える。なので、身体が死に至れば寄生虫も消滅する。
      • じぶんという寄生虫の寿命は、自分の身体の寿命の長さとは異なるという点である。自分の身体は、生まれた瞬間から死に至るまでであるが、寄生虫のほうはもっと短い。おおむね身体が4〜5歳くらいの時に誕生し、死ぬ少し前、「意識を失った」時に消滅する。認知症が重くなれば、その時点で部分的に機能を失っていることもある。
      • 「じぶんは寄生虫」論は、じぶんが身体を支配しているとは考えない。自分の身体は生物的なメカニズムにより寿命のある間は活動を続けるが、じぶんがその活動に関与できる部分は極めて限られている。なので、身体の司令塔ではなく、身体に住まわせてもらっているだけのちっぽけな存在になる。
      • 「じぶんは寄生虫」論は、身体に依存しつつも、身体から切り離された精神活動(実質的には刺激機能、反応の派生などによって構成される活動)のかたまりのようなものとしてじぶんをとらえるところに特徴がある。それによって何かメリットがあるかどうかは分からないが、自分が病気になった時に、じぶんと病身を切り離してとらえることができるかもしれない。
  • 2022年1月1日
    • 新年の抱負とか所感を書いているが、もはや、何か新しいことに取り組むというような計画はない。基本は、「日々じぶん更新」であり、要するに、日々何らかの新しい体験をしたり何らかの新しい知識を得たりすることで、昨日とは違った自分に更新していこうという姿勢だけである。
    • じっさいには、毎日規則的な生活を繰り返しているだけでも、新しい発見はあるし、体力・知力が衰えてくると、昨日と同じことができたというだけでも価値のある発見となる。「更新」には、
      • 以前よりすぐれた機能を獲得すること。
      • 以前と同じ状態をさらに続けること。免許更新、契約更新。
      という2つの意味があり、今後は2.の意味での「じぶん更新」、つまり、昨日と同じレベルのじぶんを可能な限り保ち続けることを目ざしていくことになるかと思う。
  • 2023年1月1日
    • 2023年の「じぶん更新」であるが、成長モデルにかかわる更新については、従来通り「Web日記執筆を通じて、数学、生物学、宇宙、そのほか各方面の雑学的知識を拡大する」ことと、機会があれば海外の辺境地への旅行に出かけたいと思っている程度であり、何が何でもこれだけはやり遂げたいというような目標は一切考えていない。
    • 「現状維持」の「じぶん更新」のほうも従来通りであるが、何らかの病気が見つかれば大きな制約を受ける恐れはあり、常に覚悟が必要である。ちなみに「覚悟」というのは、若い時期であれば武士道精神のようは堅固な覚悟が求められるところであるが、70歳代、80歳代、90歳代...というように歳を重ねていくと、何か重大な病気が見つかったような場合でも、「治るにこしたことはないが、治らなくても別段不平は言わない」という、「どっちでもいい精神」が自然に身についていくようである。仮に90歳を超えることができたとすれば、もはや死ぬのが嫌だとは思わない。「生きていても死んでいてもどっちでもいい」という境地に達するのではないかと思う。「覚悟」から「境地」への転換と言うべきものか。
  • 2024年1月1日
    • 老い先がますます短くなってきたいま、これといった夢とか目標のようなものはない。日々、「じぶん更新」の中で喜びに接していくだけのことだ。
    • 「以前はできていたことが困難になる」、「行動のレパートリーを縮小せざるを得なくなる」ということを生物学的必然として受け入れ、できなくなった場合には、最善の別のレパートリーに移行する。 という選択である。要するに、「シニアバージョン」、「終活バージョン」への更新ということだ。具体例としては、
      • 山登りに出かける代わりに、YouTubeや4K番組などで、登山・トレッキングの景色を楽しむ。
      • じっさいに旅行に出かける代わりに、かつて訪れた場所の写真を整理、回想する。
      • じっさいに旅行に出かける代わりにVRでRGB型の「冒険」を楽しむ。
      • 特定の専門分野を体系的に学ぶ代わりに、日常で遭遇する雑学的な問題について考える。
      などが挙げられる。とにかく断捨離を進めてシンプルなスローライフに切り替えることが肝要。


 最近は有名人や知人の訃報、がんの公表などが気になるようになってきた。毎年伝えられる件数自体は何十年も前から変わらないはずだが、最近は同世代の方の情報が多くなっており、もはや他人ごとではないという気持ちになる。ということもあってまずは、よくぞ2025年を迎えることができた、というのが第一の所感である。
 このことにも関連するが、昨年、

●なるようにしかならない、されど○○...

という死生観をふと思いついた。2024年10月3日の日記に記したように、このフレーズでは○○の部分に何を入れるのかが重要となる。当初は、

●なるようにしかならない

だけでもエエかと思ったが、事態の成り行きに身を任せているだけではあまりにも消極的過ぎる。ということで、そこで次に思い浮かべたのは、

●なるようにしかならない、されど最善を尽くす

であった。しかし「最善を尽くす」というのは、「取り得る手立ての中で最も善いと思われることを全て行う」という意味であり、これを着実に遂行すると日々の生活はかなり窮屈になるように思われた。

 ということで現時点では、

●なるようにしかならない、されどそれなりにやれることはやる

としておこうかと思う。上記の「それなり」というのは、必ずしも最善を尽くすとは限らない、その時の状況に合わせて臨機応変に対処すること、また、1つの観点からは最善ではなかったとしても別の観点ではそちらのほうが意義深いと判断された場合は次善のほうを選ぶというような意味合いを含むものである。

 ということで2025年は、
  • 年相応の「なるようにしかならない」を受け入れる。
  • 先のことは分からないが、やれることはやる。
  • できないことがあっても年相応と受け止め、悔しがらない。
  • 何事も一生懸命に取り組めば、決して「時間のムダ」にはならない。
  • 生活維持に必要な雑用であってもそれなりの価値がある。
といった平凡な隠居人生活に徹することになるかと思う。